bm-koishikeribu(yui)
M-CHARI-METAL

ベビメタ小説-『チョークで書かれた道標③』


すぅは、ぷかぷか浮かびながら悩んでいた。
頭に浮かんだ事をそのまま口に出して話す。
一人ぼっちの寂しさを紛らわせる為か、そんな独り言を大声で話し続けていた。

SU- 「う~ん。一人じゃまったく沈まんぞぉぉ。
   泳ぐとか潜るとか苦手なんだよなぁ。
   クロール12.5mは泳げたはず。
   でも、水中でクロールは出来ないよなぁ。
   だからと言って、平泳ぎは泳げーん!!
   イメージが大切って言ってたよなぁ。
   螺旋階段を下りるイメージにするとどうだろう?
   おっ、おっ、おっ。
   おぉ!これなら深く行けるかも?2段飛ばしだと??
   おっ!おっ!のわっ!!
   ふぅ。何も無いはずのイメージの階段で、転ぶところだったぁ。
   あれっ??
   どっちが下で、どっちが前だ??
   転びそうになったら、上下前後がわからなくなったぞ?
   え~っと、柱がこっち向きに伸びてるからぁ。
   前が下でぇ。
   ん?前が下?
   そっか。この世界に下とか上とか無いんだ!
   奥か手前かってだけなのかな?
   柱に沿って下りて来いって言ってたなぁ。
   とりま柱の表面まで階段のイメージで行ってと。
   で、こっから強いイメージが必要だぞ!
   これは上に伸びてる柱じゃない!倒れた柱だ!この上に立てるぞぉぉ。
   立てるったら、立てる!!
   よしよし。柱の上に立ったぞぉ!ん?こう立ってみると柱の上ってより、おっきな道路の上って感じだなぁ。」

そう言うと、柱の表面をスタスタと歩き出した。
精神世界において、重力は存在しない。重力があると思った瞬間に重力を感じている気がするだけだ。足場も同様だ。何も無い所でも、ココに立てると思えば足場がある様に立つ事が出来る。この事に すぅ は、やっと気付く事が出来た。

SU- 「うんうん。これは柱じゃない!
   アスファルトの道路と思おう!
   道路の上を一気に走って行くぞ!
   えっほ、えっほ。
   う~ん。こりゃ疲れそうだなぁ。
   じゃぁ、ローラースケートを履いてるイメージをしてみよう!
   すぃ~っ。すぃ~っ。
   おぉ!!ホントに滑ってるみたいだ!!
   じゃぁ、じゃぁ、次は自転車に乗ってるイメージ!」

すぅ は、見えない自転車に跨るそぶりをする。道路と化した柱から座った格好で30cm程浮く。
すぅ はニヤリと笑うと両足をグルグルと廻し始めた。すると、柱の上を実際の自転車と同じ速度でグングンと進んで行く。すぅ はゲラゲラ笑いながら全力で漕いだと思ったら、ハンドルを掴んでいるイメージの両手をグラグラと揺らしながら、そのまま柱の道路へ倒れズサァァァッと滑って行った。

SU- 「痛たたたた!
   そう言えば、自転車に乗れないんだった!って思った途端に転んでしまった。
   変に乗った事のある乗り物をイメージしたからダメなんだ!ついつい転ぶ所までイメージしてしまう。
   乗った事の無い乗り物で超早ーーーーい乗り物をイメージしよう!!
   えっと、えっと。
   車体が低くて、タイヤが大きくて、後ろにウィングがついてて。
   よいっしょっと!
   足を伸ばした先にブレーキとアクセル。ハンドルは小さくて。
   ブルンブルンと。
   F1カーってこんなかな?時速は600キロ位出るかな?
   よぉぉーーーし。アクセルをベタ踏みするぞ!
   スリー!ツー!ワンッ! GOォォォォォ!!!!」

その途端、柱の道路の上を寝そべる様な体勢で浮かぶ すぅ の身体が、とんでもない勢いで柱の道路の上を滑って行った。肉眼でその姿を捉えられぬスピードだった。
柱から伸びる根を器用に避けながら一瞬で、目的地の柱の道路終点地まで進んでゆく。

SU- 「うひょぉぉぉぉ!!
   ヤバい!ヤバい!ヤバい!
   スピード出過ぎぃぃぃぃ!!
   ブレーキ!ブレーキ!ブレーキ!!」

すぅ は速度を一気に下げた為に、正面のわずか3cm程の円しか見えなかった景色が一気にその円を広げて周囲が見える様になってきた。

SU- 「スピードが速いと見える範囲が狭くなるなんて、知らなかったぁ。
   ん?おっきなシャボン玉がいっぱいあるなぁ。
   なんか、夢の世界みたい♪
   あれ?
   この先、森みたいになってて道路が無ぁぁぁーーーい!!!
   うぉぉぉぉっ!!
   フルブレェェェーキ!!!!」

すぅは、イメージのブレーキを力いっぱい踏み抜いた。
その瞬間、ある映像が頭をよぎる。テレビで見たレーシングカーのクラッシュシーンだ。
その瞬間、すぅの身体はコマの様に回転をしだした。
柱の最底辺である、赤夜のコアの銀黒の泡玉を包む様に広がる根の籠の手前で、コマが止まり床に倒れるのとまったく同じ様に、すぅ の身体は緩やかに回転を止め柱の道路に倒れた。
すぐに すぅ はムクリと起き上がる。
が、千鳥足になり。

SU- 「ハラホロヒレハレェェ♪」

と言いながらパタリと倒れた。

・・・。
・・・・。
・・・・・。

最愛と由結が並んで黒夜に対峙する。
黒夜は右手を赤夜の肩に軽く乗せていた。

MOA 「≪3人の歌の力を信じて。≫の文字。
   『この歌じゃぁ困るんだよねぇ。』の言葉。
   赤夜さんは日記の中で『LEGEND D』ばかりを見ようとしてた。
   見たかったのは、3人のあの歌だ!!
   ・・・3人?あっ!すぅちゃんがいないよ!!」
YUI 「すぅちゃんなら大丈夫!
   すぅちゃんなら、ゼッタイ来てくれる!!
   すぅちゃんなら、助けてくれる!!!」
MOA 「うん!!すぅちゃんを信じる!!!」

由結と最愛の2人は上空を見上げた。

YUI 「最愛、行くよ!まだ踊れる?」
MOA 「うん!あの頃じゃない最愛を見せる!」

そう言うと、由結と最愛の2人は背と背を合わせた。
2人は一瞬手を繋ぎ、ギュッと握り、そして手を離した。
2人そろって、大きく息を吸う。
・・・。

 かなりキてる 無敵のパワー!マジでいいカンジ♪
 絶対可憐! だから負けない!明日へ さあ行こう!♪


いきなり始まる歌いだしに、赤夜がピクリと反応した。
黒夜が赤夜の肩を抱きかかえ、肩を揺らす。

黒夜 「赤夜!目を開けなさい!そして心を開きなさい!
   もあちゃんとゆいちゃんが歌ってる!
   あの日の様に、私達の目の前で歌い踊ってる!!」

赤夜の閉ざされていた瞳がゆっくりと開く。
自らの肩を抱きしめていた両腕がゆっくりと下りてゆく。
下りた赤夜の左手を黒夜はしっかりと右手で握った。
そして、この歌に反応したのは、赤夜と黒夜の他にもう一人いた。
4人の上空でその者も、ゆっくりと目を覚ます。


 Yeah! 絶対! 大胆!♪
 Yeah! 最大! 大胆!♪
 ただ待っているだけの 昨日を脱ぎ捨てて♪
 WAKU WAKU できる今日を 手にしたい♪
 触れあうだけでわかる 心のリミッター♪
 解き放たれたらホラ Yes! Change the world!♪
 熱いバトル 何度もトライ!リアルをつらぬいて♪
 絶対可憐! だから負けない!スリルがサイコー!♪
 勇気が世界の闇を 照らし始める♪
 あなたがくれた奇跡あふれる♪
 誰にも似てない笑顔 誇りにしたら♪
 未来を今超えよう♪

赤夜 「・・・ねぇ、見て。もあちゃんだよ。
   もあちゃんが、ゆいちゃんのダンスに負けない様に全力で踊ってるよ。
   黒夜、これがOver The Futureだよ。」
黒夜 「うん!うん!
   黒夜、もあちゃんが見えるんだよね?」
赤夜 「・・・何言ってるの?当たり前じゃない。
   黒夜と赤夜が大好きな、もあちゃんが目の前にいるんだよ。
   見えてるに決まってるじゃない。」

赤夜の透過していた身体から、透明度が失われてゆく。
呆けた様に開いた赤夜の口が、由結と最愛の歌に合わせて歌詞を呟き始める。
由結と最愛の激しい踊りを見ながら、赤夜の大きく開いた瞳から、大粒の涙がこぼれた。
そして、黒夜の瞳にもまた、いつこぼれても可笑しくない位の涙が溜まり続けていた。

由結と最愛が踊りながら少し不安な表情を見せた。その眼は不安から祈る様な眼差しへと変わってゆく。
そして、今まで信じていれば、必ず応えてくれていた。との思いから、今回も信じる!と強い意思を込めて歌い続けた。


 Yeah! 絶対! 大胆!♪
 Yeah! 最大! 大胆!♪


由結と最愛は次の瞬間に向けて息を飲み、瞳をギュッとつぶる。
それと同時に由結と最愛の頭上から、女神の歌声が降ってきた。

 こんな困難だって 案外平気だし♪
 DOKI DOKI しながらまたハマってく♪
 てゆーか「待ってるのはラクだけじゃない」こと♪
 わかり始めてるから Don't lose my way!♪

MOA 「すぅちゃん!!」
YUI 「信じる心に、すぅちゃんは必ず応えてくれる!」

すぅ が巨木の柱から、ゆっくり一歩一歩4人に向かってと階段を下りる様に下りてくる。
赤夜と黒夜が繋いだ手を振り上げる。


 傷つくのも怖れないで どこにでも行ける♪
 絶対可憐! それがポリシー!痛みも楽しめる♪


赤夜 「ここからだよ。3人の熱い歌声が響くよ!!」

 涙は夢のありかを 探す輝き♪
 それぞれ違う光を放つ♪
 悲しみ抱え込むなら 私も泣こう♪
 未来はこの手にある♪


すぅ、由結、最愛のダンスが聞こえぬギターソロを耳に感じさせる。
前に出した右手を中心に3人が回る。
3人のダンスから視線を外し赤夜が黒夜の瞳を見つめる。
その視線を感じ、黒夜が赤夜の瞳を見つめ返す。
赤味を帯びた2人の瞳から、宿していた恨みや憎しみといった闇が消え始めていった。
赤夜と黒夜も3人の歌声に合わせて一緒に歌い始める。


 勇気が世界の闇を 照らし始める♪
 あなたがくれた奇跡あふれる♪
 誰にも似てない笑顔 誇りにしたら♪
 未来を今超えよう♪
 We can try over the future world!!♪


・・・。
歌の余韻が世界を包む。その余韻が波紋がゆっくりと消える水面の様に消えてゆく。
そして、再び静寂が訪れた。

黒夜が赤夜の左手を強く握った。
赤夜が黒夜の右手を握り返した。
手の平から伝わる感情。
黒夜が俯いたまま、チラリと赤夜の瞳を覗き見た。

黒夜 「赤夜・・・ごめんなさい。」
赤夜 「うんん。赤夜の方こそ黒夜を・・・ごめんなさいね。」
黒夜 「黒屋が悪いから、気にしないで。」
赤夜 「気にしないでって言われても・・・赤夜は怒りにまかせて黒夜を。
   そして死んだ後にも・・・黒夜を。」
黒夜 「2度とも黒夜が赤夜を傷つけた事が原因だから、謝るのは黒夜の方だよ。ホントにホントに、ごめんなさい。」
赤夜 「ふふっ。以前の黒夜に戻ったね。謝り癖のある黒夜に。
   赤夜の方こそ、もう一度謝らせて。黒夜、ごめんね。
   ところで、ここはどこ?天国?」
黒夜 「ここはね、ゆいちゃんの心の世界。赤夜は覚えていないと思うけど、あなたは怨霊となって ゆいちゃん に憑りついてしまったの。それで、憑りついた赤夜を ゆいちゃん から剥がす為に もあちゃん と すぅちゃん はこの世界に来たの。」
赤夜 「そっか。全部夢じゃなかったのか・・・。なんとなく意識はあったんだ。もあちゃん と ゆいちゃん に謝らなくちゃな。」

赤夜と黒夜の様子を3人は少し離れた所から眺めていた。
どう声を掛けたらいいかわからない。
そして、どう接していいのかわからない。
すぅ と由結が目配せをする。
こういった時、必ず率先して動くのは最愛だった。
軽く一歩を踏み出し、赤夜の前に行くと深々と頭を下げた。

MOA 「こんにちわ!」
赤夜 「うわっ!も、も、も、もあちゃん!!
   こ、こんにちわ!!そして、ごめんなさい!!!!」
MOA 「はい。とても怖い思いをさせて頂きました。ニコッ♪」

最愛は笑顔を作ったが、内情はとても複雑だった。
赤夜の死ぬまでの約1年を知ってしまったから。
赤夜に対する怒り、恐怖、そして哀れみ。
それと同時に、黒夜に対する怒りと恐れ、そして疑い。
今まで見て来た事、読んで来た事が映像となって脳裏を渦巻く。
最愛の後ろから、由結と すぅ が駆けつける。

SU-/YUI 「こんにちわ!」
赤夜 「BABYMETALの3人が揃った!!うわわわわ。
   あっ!ゆいちゃん、ごめんなさい!!!!」
SU- 「えーと、すぅ に『ごめん』は無いのかな?」
赤夜 「え? すぅちゃんには、そんなに迷惑かけてないかなぁと。」
SU- 「くぅおら!!十分迷惑かけてるわ!!
   最愛をだっこしてムチムチ堪能したり!
   由結をおんぶしてペッチャ満喫したり!!
   ついさっきだって、2人の頭をなでなでしながら歌ってたんだから!!」
YUI 「ヴォイ!!」
MOA 「赤夜さん、すぅちゃん にだけはゼッタイに謝らないで下さい!」
赤夜 「・・・うふふ。あははっ。
   笑っちゃって、ごめんなさいね。
   でも・・・久しぶり。楽しくて笑うのって久しぶりかも。」
MOA 「赤夜さん。」
SU- 「ところで、何でうるさい黒夜はさっきから黙ってるの?
   おしゃべりでハイテンションでインチキ関西人の黒夜はどこ行ったのさ?
   明るさが取り得の黒夜でしょ?しんみりしてるの?」
赤夜 「??」
MOA 「・・・まただ。」
SU- 「ん?また?」
MOA 「ううん。なんでもない・・・。
   ところで赤夜さん、今の状態で由結から完全に離れるって出来るんですか?」
赤夜 「うん。それは出来るよ。ゆいちゃんに影響がまったく無く綺麗に離れるには、少し時間がかかるかもしれないけど・・・うっ。・・・あれ?・・・身体に力が・・・入ら・・ない。」
YUI 「・・・ゆ、由結もなんだか・・・熱が出た様に・・・身体が・・・ダルくて。」
黒夜 「マズい!思った通りだ!」

SU- 「黒夜!何が思った通りなの!? 2人に何が起こり始めてるの!?」
黒夜 「赤夜の怨霊化が解除された所為で、ゆいちゃんの免疫反応に赤夜が耐えられなくなってるんだ!
   普通の霊は一度に1人にしか憑り付く事は出来ない!でも、怨霊は一度に力の分だけ複数人に憑りつき操る事が出来るの!
   今の赤夜は普通の霊なのに ゆいちゃん と もあちゃん の2人に憑りついている状態!
   力が分散してるから、更に赤夜の憑り付く力は半分になってる。ゆいちゃん の免疫力が赤夜を異物と完全認識して攻撃してるんだ。白血球がウィルスを攻撃し排除する時に発熱するのと同じ状態なんだよ!」
MOA 「あっ!最愛がこのミルクゼリーの海に すぅちゃん の歌玉を纏わずに入った時と同じ状態って事か!柱がミルクゼリーにチクチク攻撃されてるのか!だったら、最愛も由結と同じ状態になるはずじゃ?
   それに1人にしか憑り付けないのだって、黒夜さんも すぅちゃん と由結の2人に憑り付いてるじゃないか!!」
黒夜 「もあちゃん が、ゆいちゃん に憑り付いたのと違う様に、黒夜は ゆいちゃん に憑り付いた訳ではないの。憑り付くのと入るだけなのでは、意味も目的も方法も大きく違う。違いはあの木から生える“根”よ。あの根は、憑り付いた相手の精神から養分を吸い取り続けているの。相手に寄生してるってイメージ。それに対して入るだけの場合は、今ある精神体のみでの活動であって、入った相手の精神に依存しないのよ。
   あと、ゆいちゃん だけ発熱して、もあちゃん は、なんともないって事だけど・・・。
   もあちゃん、赤夜の精神は、もあちゃん の何処の層まで入ってた?この赤夜の柱は“水”の領域に入って無かったはず!」

MOA 「そんな事ない!たしかコーヒーゼリーの海に2m位沈んでたよ!」
黒夜 「自我の海に2mも入っていたのに、もあちゃん に影響が出てない?
   もしかして・・・もうすでに抜け始めてる!?」

ゴゴゴゴゴゴゴッ!!!!

突然、地鳴りの様な音と共に赤夜のシルバー色の柱が赤夜の泡玉を抱えたまま上方に向かって動き始めた。
赤夜の泡玉を囲む根が、悲鳴を上げているかの様にわさわさと揺れ続ける。

黒夜 「時間が無い!!
   赤夜は黒夜が手伝うから急いて自分の自我の中、あの泡玉の中に戻って!戻ったら、ゆいちゃんの自我を傷付け無い様にする事だけに意識を集中して!
   ゆいちゃんは一人で移動出来るよね?ゆいちゃんも自分の自我の中に!!そうすれば、少しは楽になるはず!」
MOA 「最愛が由結を虹色の泡玉まで連れて行ってあげる!!」
黒夜 「ダメっ!!!
   一番時間が無いのは、もあちゃん なの!!!!
   赤夜の柱が、もあちゃん の世界から完全に抜けたら戻る入口が無くなってしまう!!
   急がないと自分の身体に戻れなくなる!!!!
   だから今すぐ赤夜の柱に飛び込んで!自分の世界に早く戻って!!!」

そう黒夜は言うと、すぅ と赤夜の腕を掴み、赤夜のコアである泡玉に向かって飛びあがった。
由結が、よろよろと自分の泡玉に向かって進みはじめる。
最愛は、由結が動き始めた事を確認すると、黒夜以上の速さで柱に向かって突き進んだ。
最愛が、赤夜の巨木の様な柱の最下部に到着した。最愛がみんなを見渡す。
黒夜達は赤夜を泡玉に戻す最中だった。
由結は、一人フラフラと虹色の泡玉に向かって飛んでいた。
最愛は、柱に向かって向き直る。
柱の表面が、ざわざわと細かく波打っている。おそらく由結のミルクゼリーに攻撃をされ続けているのだろう。
由結の精神世界に入った時、最愛は柱の内部の内圧に耐えられず押し出されてしまった。その事を思いだし、恐々と波立つ柱の表面に両手を添えた。その瞬間、柱が最愛を受け入れたのか、引っ張られる様に、するりと最愛は柱の内部に引きずり込まれた。
柱の内部の方が圧が低いのか、身が軽い。
最愛は頭上を見据える。大きく息を吸い、頬を膨らませる。ゆっくりと両拳を握ると、左肘を曲げ拳を左肩の前に置き、右手を頭上に掲げた。そして、両足を軽く曲げ細かく足踏みすると、一気にジャンプした。
最愛の頭の中に、水戸黄門主題歌の様な行進曲が激しく鳴り響く。そのテンポが徐々に高速化してゆく。BPM120からBPM240へと、そして更に高速化する。その速度に合わせ最愛が柱の中を突き進む速度も高速化してゆく。BPM460を超えBPM720に達した頃には、由結の精神世界の最深部へ潜る際に見せたスピードの約5倍もの速度に達していた。

あっという間に、ミルクゼリーの海である“水”の領域を抜け出し“空”の領域へと入る。柱内部に有った砂鉄の様な黒い砂の様な粒が透明化していた。そのおかげで透過度が上がり柱内部にいても、外の景色が見える。あれだけ太い幹の様な枝を広げていた柱は、その枝を失いつつあり、白と黒のマーブル模様だったドーム状の天井も、ほぼ白一色へと変わりつつあった。
最愛が内部を登る赤夜の柱と並行し、黒夜の赤い刃の様な柱が見える。今頃、黒夜と すぅ も赤い刃の中を登ってきているだろう。と思いながら最愛は柱の内部を高速で進んでゆく。
ドーム状の天井から一気に暗黒の宇宙の様な領域へと抜けてゆく。

MOA 「このゾーンを抜ければ、最愛の世界に帰れる!!
   あっ! 黒いドーム状の屋根!!あそこに入れば!!
   あと少しで!ほら、もう届く!!!!」

硬く握っていた最愛の右手が、自分の世界を求める様にゆっくりと開く。
景色がコマ送りの様に進んでゆく。
あと身体2つ分で届くと思った瞬間。
最愛の全身を激しい痛みが突然襲った。
突然の暗闇。
身体中を引き千切るかの様に全方向に強烈な力で引っ張られる。それと同時に身体中全体に刃を差し込まれる様な強烈な感触。
ブラウン管が消える様に、ブツリと最愛の意識が途絶えた。

最愛の身体が暗闇に浮かぶ。
力なく伸ばした右手の指先30cm先に黒いドーム状の屋根の表面があった。
僅か2m。
赤夜の柱は、最愛の精神世界から既に抜け落ちていた。
最愛の身体に纏う衣装の表面がゆっくりと溶け崩れ、赤い泡玉へと戻り霧散してゆく。
赤夜の柱の末端が、悲しそうにフルルと震え、震える指先で亡骸に恐々と触れるかの如く、最愛の足の裏をほんの少しだけ触れた。

教室の入り口の所で転がる懐中電灯の灯りが少女達を避け、廊下向かいの教室の壁を煌々と照らしていた。
廊下突き当りから薄明りの入っている為、薄闇ながらも廊下全体が見渡せる。
へたり座った状態だった すぅ がゆっくりと頭を上げた。
そしてその すぅ の目の前で、由結がゆっくりと体を起こす。
突然、すぅ の背中からから湯気と水蒸気がもくもくと湧き上がり、背中から脱皮し抜け出るかの様に1人の女の子が姿を現した。
髪の毛は赤毛の肩まであるくせ毛で、切れ長の一重まぶたの女の子。黒夜だった。
黒夜は息を切らせ、肩で呼吸をしていた。

黒夜 「はぁ、はぁ、はぁ。もあちゃんは!?」
SU- 「ま、まだ寝てる!」
黒夜 「そんな、馬鹿な!!!
   赤夜!!赤夜!!!
   赤夜、いるんでしょ!?!?」

何も反応が無い。
すぅ と由結が辺りをキョロキョロと見回す。

黒夜 「ゆいちゃん!赤夜はゆいちゃんの中にまだ居る!?」
YUI 「わ、わからない。」
黒夜 「ゆいちゃん!心の中で赤夜に強く呼びかけて!!」
YUI 「・・・。・・・!・・・!!
   ダメだ。何も反応が無い。」
黒夜 「う、うそ!?・・・そ・・そんな。」
SU- 「なに?黒夜!どんな状況なの!?」
黒夜 「・・・。」
SU- 「黙ってないで、最愛がどんな状況か説明しなさいよ!!」
黒夜 「・・・もあちゃんは・・・もあちゃんは・・・。」
SU- 「しっかりしなさい!!ちゃんと説明して!!」
黒夜 「・・・ゆいちゃん の中で赤夜と ゆいちゃん の巨大なシャボン玉の様な球体を見たでしょ?
   あれが、核や魂と言われる物なの。通常あの中に意識がある。今、もあちゃんは意識のみの状態。」
SU- 「今、そんな説明している状況なの??それで、最愛はどうなってるのか結果を教えてよ!」
黒夜 「いいから聞いて。
   死んだりすると、魂である核の球体が身体から抜け出る。核の球体は外気に触れると風化が始まるんだけど、風化しない場合がある。未練や恨みや絶望、そして強い願望。そういった内に籠る思いは外部を拒絶するのか外気に触れても風化が起こらないの。外部で核の球体を維持した状態が霊体。黒夜と赤夜の状態。
   普通に生きてる もあちゃん の魂を身体から出す事は出来なかった。そして幽体離脱させる時間もタイミングもなかった。だから赤夜を使って意識だけ取り出す『意識抜け』を行ったの。
   『意識抜け』には時間とか制限があって・・・。
   制限の中には外気に触れてはいけないって事も・・・。
   ・・も・・もあちゃん・・・間に合わなかった。
   ・・・も・もあちゃん・・・もあちゃんが死んじゃった。
   ・・・赤夜も・・・赤夜も!!
   ごめんなさい。こんな筈じゃ。もあちゃん、赤夜・・ごめんなさい!!!!」

YUI 「何、馬鹿な事いうんだよ!!
   最愛が死ぬ訳ない!!!
   こんな簡単に最愛が死ぬ訳ないんだよぉっ!!!!
   最愛!!!最愛!!!早く起きなさいよ!!!もあぁぁぁぁっ!!!!」
黒夜 「・・・赤夜がいない。
   もあちゃんも・・・もあちゃんの意識が身体に入って無いの。
   魂の中に意識がないのよぉぉぉ。
   剥き出しの意識が外気に触れると・・今頃。」

由結が両手で最愛の身体を揺さぶる。
最愛の身体は、力なく単なる肉の塊の様にグラグラと揺れる。
由結は、最愛の名前を何度も泣き叫びながら最愛の胸に両手でしがみ付く。
その時、由結左手が意思とは関係なく、ぐにゃりと不思議な動きを見せ、左の手の平を最愛の頭頂部へとあてがった。
最愛の身体が小さくビクンと跳ねる。
急に すぅ が歌い始めた。メギツネの途中から突然に大声で。

 いにしえの乙女達よ♪
 かりそめの夢に踊る♪
 幾千の時を超えて♪
 今を生きる♪

曲のリズムに合わせ最愛の身体がビクンと跳ねる。

YUI 「な、なに?何が起きてるの!?!?」
黒夜 「きっと赤夜だ!赤夜がもあちゃんを助けようとしてる!!」

跳ね続ける最愛の身体の向う側の床に変化が現れた。
白いチョークの文字が勢いよく書き込まれてゆく。

   ≪力が足りない!怖くて思い出したくないゆいちゃんの記憶を赤夜に頂戴!!≫

由結は勢いよく振り返り、すぅ の足元を見る。同じ様にチョークで書かれた文字が床に浮かび上がっていた。
由結はその文字で すぅ の行動を理解した。

   ≪すぅちゃんの歌が必要!もあちゃんの為に大声で歌って!!≫

希望を捨てない。絶望に負けない。絶対に信用する。
3人が幼い頃から、叩き込まれていた事だ。
由結は自分の中にいるであろう赤夜に大声で訴えた。

YUI 「黒板を爪でガーってやった音が苦手~!!ゴキブリが飛んでる姿も!!
   赤夜さん!!由結の記憶を好きなだけ食べていいよ!!!!
   最愛、戦ってるんでしょ!?負けるな!こっちに来い!!!
   ずっと乗り越えて来たじゃない!一緒にいつも越えれたじゃない!!
   最愛ぁぁぁぁ!!戻って来ぉぉぉぉぉい!!!!」

由結がそう呼びかけた途端、最愛の身体がビクンッと大きく跳ねた。
上半身が腰の辺りまで宙に浮き、そして最愛の身体はゆっくりと床に着いた。
すぅ の歌が終わり、廊下に静けさが戻る。
由結が最愛の頬に触れる。
冷たかった。
唇も血の気がなく、紫色に変わっていた。
由結は慌てて最愛の手を握る。
力なく開いた最愛の手の平は、やはり冷たかった。

YUI 「最愛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

由結はすがる様に最愛の身体に抱き着いた。
由結の背中から突然に湯気と水蒸気が噴き出す。そして背中から脱皮し抜け出るかの様に1人の女の子が姿を現した。
髪の毛は黒髪で腰まであるストレート、二重まぶたの色白な女の子。赤夜だった。
由結は振り向こうとする。

赤夜 「そのまま!!もあちゃんを抱きしめて温めて!!すぅちゃんもお願い!!」
黒夜 「赤夜!!!」

すぅ が反射的に駆け寄りも由結の反対側から最愛に抱き着いた。
由結と すぅ が最愛の名前を必死で呼び掛け続けながら、最愛の身体に顔を埋める様に抱き着く。

黒夜 「赤夜!もあちゃんはどうなってるの!?戻れたの?戻れたんでしょ!?」
赤夜 「はぁ。はぁ。はぁ。わからない!
   赤夜の繋がりが、もあちゃんの精神世界から弾かれ出されてしまったタイミングで、もあちゃんは赤夜の中から出てしまったの。」
黒夜 「やっぱり、意識状態の もあちゃん が外気に出てしまったのね!出た瞬間に意識は霧散してしまうはず!」
赤夜 「何故だかわからない!もあちゃんは霧散しなかった!あの衣装のおかげかもしれない!
   そう思ったから、すぅちゃん に歌って貰ったの。
   で、歌が もあちゃん の精神世界に入って行く入口に、歌と一緒に もあちゃんの意識を押し込んだ!
   はぁ。はぁ。はぁ。
   2人共、もっと最愛ちゃんに呼びかけて!!」

由結と すぅ は最愛をより強く抱きしめた!

MOA 「うぐっ。・・・く・・・苦しいよ。」
SU-/YUI 「最愛ぁぁぁぁぁ!!!」
MOA 「苦しいってば。つ・・潰れる。最愛の胸が潰れる。」
YUI 「最愛の馬鹿!!!死んじゃったかと思ったじゃない!!!」
MOA 「うん。たぶん、死んでた。2人に呼ばれてなかったら、そのまま死んでた。と思う。」
SU- 「し、死んでたの!?」
MOA 「ははは。死んでた!一瞬何も無かった!無いって事すら無い位に何も無かった!
   あれが、死なんだろうなぁ。
   うぅぅぅ。さ、寒い!!!!」
赤夜 「魂と意識の修復にエネルギーを使ってるのよ。そっちに熱を奪われて身体が冷えてしまってるだけ。もうすぐで元に戻るから。2人で温めて上げて・・・うっ。」

赤夜の身体がふらりと揺れ、膝を付いた。
倒れそうになる赤夜の身体を黒夜は慌てて支える。

黒夜 「赤夜!大丈夫!?肩を貸してあげる!!」
赤夜 「ありがとう。
   もあちゃんの意識を外気から守る為に赤夜の魂の一部を切り離して、もあちゃんを包んだから。
   あの状態の魂でやるには、ちょっとダメージが多き過ぎたみたい。
   自分を維持するので精一杯かも。
   でも、もあちゃんを救えて良かった。
   もあちゃんに逢えて良かった。
   未練も恨みも絶望も消えたよ。」
黒夜 「・・・未練も恨みも絶望も消えちゃったか。
   あの頃に戻りたいとか思わない?」
赤夜 「全然。
   早くママの所に行きたいわ。ママ、きっと待っててくれてると思う。」
黒夜 「・・・そっか。心残りは無いのね。」
赤夜 「うん。無い無い。
   あっ!月の明かりが窓のを照らしてる。こんな事、あの夜以来初めてだ。」

廊下月当たりの窓に月明かりが当たり照らしていた。
その明りは、廊下の床も照らし、キラキラと輝いている。
いつの間にか、廊下に澱の様に貯まっていた瘴気と暗闇は消え去っていた。
最愛はゆっくりと立ち上がる。
すぅ と由結も最愛を支えながら一緒に立ち上がる。
不意に天井から光の粒が一つ二つと赤夜と黒夜の頭上に降り始めた。
その光の粒は、風の無い廊下の中ふわふわと舞い、ゆっくりと数を増やしながら2人に降り注ぐ。

黒夜 「来ちゃったか。赤夜、ベランダに出よう。」
赤夜 「えっ?ベランダに出る事が出来るの?」
黒夜 「うん。もう出れるよ。」

黒夜が赤夜の肩を貸しながら、ゆっくりと廊下を歩き始めた。
2人が通り過ぎた廊下の両側の壁が柔らかい光を一瞬放ち、チョークで書かれた文字が消え、再び元の普通の壁に戻ってゆく。
最愛達も、後ろを付いてゆく。
黒夜と赤夜が突き当りの窓の前に着く。
2人の足元を月明かりが照らしている。
降り注ぐ光の粒の量は増え、一つ一つの光の量も増した。
赤夜が左に首を動かし、2-5教室の中を見た。
それに合わせて、黒夜も2-5教室の中を見る。

黒夜 「教室の中に行く?」
赤夜 「ううん。もうあそこには行きたくないな。」
黒夜 「だよね。もうあそこには戻らなくていいんだよ。」
赤夜 「なんで?戻らなくていいの?」
黒夜 「うん。この世に留まる理由が無くなったみたい。だから迎えが来たんだよ。
   この建物から出るんだ。もう縛るものが無いから。」

赤夜は黒夜と共に廊下突き当りからベランダへと出た。
夜空に大きな満月が輝いていた。
赤夜は振り返り、最愛、由結、すぅ の順番に話しかけた。

赤夜 「もあちゃん、BABYMETAL楽しい?」
MOA 「うん。楽しいよ。色々な事があったんだ。
   レディ・ガガのオープニングアクトしたり、ワールドツアーしたり、新曲だって出来たんだよ。」
赤夜 「そっか、楽しいのか。BABYMETALだもんね。楽しいよね。
   ゆいちゃん も楽しい?」
YUI 「うん。高校生になって色々と悩む事もあるし不安になる事もあるけど、でも楽しい!」
赤夜 「そうだよね。すぅちゃん は?」
SU- 「もちろん!新曲のRoad of Resistanceって曲がカッコよくて、あわだまって曲がカワイイんだよ。それにそれに、ヤバいくらいにテンションの上がる曲もあるの。」
赤夜 「そっか、BABYMETALはどんどん進化してるんだね。」
黒夜 「赤夜、もう時間だよ。」
MOA 「ま、待って!!最愛は黒夜さんに聞かなきゃいけない事が色々あるの!!」
黒夜 「もあちゃん、ごめんね。赤夜の魂が崩れ始めてるの。赤夜と共に黒夜も行かせて。」
MOA 「そ、そんなぁ!!」
YUI 「最愛、2人を見送ろう。」
SU- 「うん。ほら、最愛。」
赤夜 「もあちゃん、さようなら。」
黒夜 「すぅちゃん、ゆいちゃん、さようなら。」

赤夜は黒夜の肩から腕を外し、右手で黒夜の左手を軽く握った。
光の粒の輝きがみるみる内に増してゆき、粒と粒が繋がり光の帯となってゆく。
光の帯は満月の方向から何本も絡み合いながら降り注ぎ、赤夜と黒夜の身体をスポットライトの様にキラキラと包み込んでゆく。
その光に引き寄せられる様に2人の身体が夜空の光の元へとゆっくりと浮かんでゆく。
黄泉への迎えが来たようだ。

赤夜 「私達、やっとここを離れる事が出来るのね。」
黒夜 「・・・。」
赤夜 「心残り、一つだけあったわ。」
黒夜 「・・・。」
赤夜 「BABYMETALのこれからの活躍を見守り続けたかった。
   ・・・やっぱり、このまま消えてしまうのは、少しさみしいなぁ。」
黒夜 「・・・。」
赤夜 「けど!これでやっと天国に行ける!」
黒夜 「・・・赤夜。」
赤夜 「ん?」
黒夜 「・・・赤夜。私達が行けるのは、・・・そっちじゃないよ。」
赤夜 「えっ!?」
黒夜 「そっちじゃ、ないのよ。」

黒夜は、左腕を赤夜の右腕にガッシリと絡ませると真っ赤な口を開き、声無く笑った。
その顔はまさに『キモチワルイエガオ』そのものだった。
次の瞬間、黒夜は赤夜の腕を引っ張り、降り注ぐ光の中から赤夜と共に飛び出した。そして最愛、すぅ、由結の頭上へと赤夜をグイグイと引っ張り降りてきた。

赤夜 「な、何を!?」
MOA 「黒夜さんっ!!!」
黒夜 「ふふっ。ふふふふっ。・・・あはっ!あはははっ!
   あーはっははははははっ!!
   勝った!ついに!ついに黒夜は勝ったっ!!
   もあちゃん、すぅちゃん、ゆいちゃん。あなた達のおかげよ!!
   感謝の印に、あなた達の恐怖の記憶、根こそぎ黒夜が喰い散らかしてあげる!!
   恐怖よ! この黒夜の力になれぇぇっ!!!!」

そう言い放つと黒夜は右手で、由結、すぅ、最愛の順で頭頂部を頭上から撫でていった。
次々に3人の瞳から光が失われてゆく。
3人共に直立不動で魂が抜けた人形の様に口と目を見開いたまま、まったく動かなくなった。
赤夜が黒夜の動きに抵抗しようと暴れるが、黒夜の力は凄まじく強く、掴まれた右腕を抜く事すら出来ない。
黒夜の下品な笑い声が響き渡る。
赤夜が3人の名を繰り返し絶叫する。

黒夜 「さぁ赤夜、黒夜と一緒に落ちましょう。」
赤夜 「く、黒夜?違う!黒夜じゃない!!あ、あなた誰!?」
黒夜 「いいえ。私も黒夜よ。」

黒夜は赤夜の右腕に左腕を絡ませたまま、抗う赤夜の顔面を鷲掴みにすると、そのまま流星の速度で東の空へ飛んで消えて行ってしまった。

満月から降り注ぐ光が消えてゆく。
夜の闇が再び訪れる。
光の消灯と同時に、瞳から光が消えたまま佇む3人が、暗闇の中バタバタとその場に膝から崩れて倒れていった。

強い南からの夜風が、建物全体に吹き付ける。
ガラスの割れ落ちた窓から入った風が、3人の身体を撫でながら廊下を駆け抜け、各教室へと入り込んでいった。
止まり続けた時計の針が突然動き出だしたかの様に、廊下の壁に貼られた剥がれかけたプリント用紙が、バサッ・・バサッ・・バサッと規則的な音を立て、なびき続けていた。

・・・。
・・・。

2016年夏。

トゥルルル,トゥルルル。 トゥルルル,トゥルルル。・・・。
トゥルルル,トゥルルル。 トゥルルル,トゥルルル。・・・。

携帯電話が鳴っていた。
レッスン室の中、踊り疲れた3人は板張りの床の上でそのまま眠ってしまっていた様だ。
うだる様な熱さだった。
最愛は身体を起し、すぅ の身体をゆする。

MOA 「すぅちゃん 携帯鳴ってるよ。
   それにしても熱いなぁ。去年のあの日みたいだよ。うっ!
   痛たたたたっ。また頭が痛くなってきた!!
   この頭痛っていつから痛む様になったんだっけ?うっ!
   ところで今、去年のあの日って言ったけど、『あの日』の事だよな??
   イテェーーーッ!
   ふぅ。考えるな。考えるな。頭を空にしろ。考えなければ痛みは治ま・・・。
   ほら、治まった!!
   はぁ。女性は頭痛持ちが多いんだよなぁ。最愛もレディになった証拠か??」

トゥルルル,トゥルルル。 トゥルルル,トゥルルル。・・・。

YUI 「ほら、すぅちゃん。起きなって!電話鳴り続けてるよ。
   最愛はいつもの頭痛?最近多くない?」
MOA 「うん。疲れてるのかもね。ところで、すぅちゃん くすぐっちゃう??」
YUI 「そうだね!電話に出ない すぅちゃん が悪いんだし、くすぐろっか?」
SU- 「はいはい。起きてるって。・・・起きてりゅって・・ムニャムニャ。」
MOA 「コラーーーーッ!!また寝た!携帯出なよ!」
SU- 「はい!起きました!ちょっと由結、すぅの携帯バックのポケットに入ってるから持ってきてぇ。」
YUI 「やれやれ。え~っと、ひめたんからの着信だよ!」
SU- 「あれ?なんでひめたんから?えーと、なんか約束してたっけ?
   あっ由結、取って来てくれてありがとう。
   もしもーーし!!
   え?なに??あの時のタクシーの運転手さんに有った?
   乗ったら、あの日の運転手だった?
   あの日ってどの日よ?
   去年の今頃の?廃墟の専門学校??
   なんかさぁ、去年からその話をよくするけど、意味がわかんないよ!
   なんでその話すると、『大変だった!』って怒るんだよぉ。知らないってば。
   レッスン中だから、切るね!じゃーね!またねー!!」

すぅは、床の上を滑らせる様に携帯を自分の荷物の方向に投げた。
そして、床の上をゴロゴロと転がりながら、水の入ったペットボトルを取りに行き、寝たまま横向きでペットボトルの口を咥える。そして一口だけ噛む様に飲んだ。
ゆっくりと、上半身を起き上がらせ、胡坐をかく。そしてこめかみ辺りを右手親指でグリグリと押し眉間に皺を寄せながら首を傾げる。

YUI 「『あの日』って、ひめたんがウチら3人を運んだって言い張ってる話?んっ。」
SU- 「うん。いつものあれよ、妄想。ひめたんが言う『あの日』に建物から一緒にウチらを運ぶの手伝ってくれたタクシーの運転手さんに会ったんだって。
   『時間になったら電話しろって言ったのも すぅ!電話に出なかったらココに来てってメモをくれたのも すぅ!!で、行って電話したら建物から着信音がして、運転手さんと探しに行ったら3人が倒れてたんじゃろ!!』
   って、いつものヤツよ。ひめたんはよく夢と現実がゴッチャになるからなぁ。」
MOA 「あっ、こんな時間か。今日も寄り道してから帰りたいから先に上がるわ。」
SU- 「また、あそこに行くの?最愛はひめたんの話しを信じてるの?それよか、甘いモノ食べに行こうよ。」
MOA 「いや、まったく記憶にないし信じてないけど。なんとなくね。廃墟好きだから見に行きたくなるのよ。甘いモノは今度にするわ。」
YUI 「ふ~ん。6月頭から毎週飽きずに1人で見に行ってるよね。3人で1回見に行ったけど、廃墟なんて気持ち悪いだけじゃん。中に入ると楽しいの?」
MOA 「中になんて入らないよ!!!!」
YUI 「うっ!なんで、ムキになって大声だすんだよぉ。」
MOA 「あっ。ごめん。なんか急に大声だして・・・。暗くなる前に寄り道終わらせたいから、もう行くわ。」
SU- 「すぅは由結と甘いモノ食べに行くよ。あとで『行きたかった!』とか言い出すでしょ?最愛も行こうよ。」
MOA 「すぅちゃん マジごめん。お疲れ様!」
SU-/YUI 「は~い。お疲れ様ぁ。」

最愛は着替えて、足早にレッスン場を後にした。
電車を数回乗り継ぎ目的地に向かう。借りているマンションへの道のりから大きく外れる寄り道だった。

この寄り道を最愛は6月頭から週1回以上で繰り返している。学校帰りに立ち寄る事もあったが、必ず訪れるのは陽が沈む前と決めていた。
6月より以前は、昨年の秋に1回だけ、ひめたんがうるさいので3人で見に来ていた。その時は建物から30m程手前で立ち止まり、遠目で見てまったく記憶にない事を3人で確信すると、そのまま踵を返した。何故か3人揃って建物の前まで行こうとは思わなかった。駅へと戻る道を来た時の道とは違う道へと変えて歩いてみたが、両行き方共に全く歩いた事の無い景色だった事や、駅周辺の街並みも全く記憶になかった事から、『ひめたんの夢』って事で片付けてしまっていた。

最愛は、通い慣れた駅からの道を歩く。
駅近くの寂れた商店で、いつもの様に水と棒アイスを買う。その場でアイスの袋を開け中の棒アイスを取り出すと、お店のおばちゃんに袋を渡し捨てて貰う。
目的地までの15分の道のり。最愛は棒アイスを食べながら、ゆっくりと歩く。
駅前商店街を抜け、国道に出た所で左に曲がり、200m歩いた所にあるコンビニのゴミ箱にアイスの棒を捨てる。横断歩道を渡り、市道へと入る。いつもの様に途中にある保育園の前で立ち止まり、園庭で遊ぶ園児達に笑顔で手を振る。そして、また歩きだしその先にあるT字の角にあるコンビニで椅子に座り、タスキ掛けした肩下げカバンからピルケースを取り出し、中から錠剤を2錠取り水で飲む。再度水を飲みながらスマホをチェックする。由結からメッセージが来ていた。ケーキを食べる すぅ の画像が添付されており『この店美味しいよ!今度一緒に行こう!』と言葉が添えられていた。『了解!楽しみにしてる!』とだけ返信する。

最愛は空を見上げた。
巨大な入道雲が浮かんでいる。
飲んだ水が身体を巡ったのか、急に鼻の周りに汗が浮かぶ。カバンからハンドタオルを取り出しながら立ち上がる。鼻の周りの汗を押さえる様に拭き、ハンドタオルを右手に持ったまま、大きく数回深呼吸をした。

MOA 「ふぅ。よし、行くか。」

最愛は歩き出す。
コンビニ前の信号を渡り直進する。コンビニ前のT字を右折した方向がバス通りとなる為、直進すると縁石と柵で区切られた歩道は消え、白線で区切った路側帯を歩くことになる。道幅は8m満たない位だろうか。
最愛は横断歩道を渡り、道路左側の路側帯内を歩いてゆく。道路右側は背の高い白い仮囲いで囲まれていた。どうも、道路拡張計画がある様な事が書かれた掲示物が仮囲いに貼られているが、見た限りまったく道路工事を行う素振りがない。左側は瓦の乗った土塀が続いている。最愛がスマホの地図で見た限り、左側はお寺の広大な敷地の様だった。土塀の上から松やクヌギ、ブナといった樹木が伸びている。
100m程、足元を見ながら進んでゆくと急に道幅が広がる箇所に出た。そこで最愛は足を止めた。
足元に転がるクヌギの丸い黒く汚れたどんぐりをつま先で弄る。何となく、拾おうと思い、腰を屈め手を伸ばす、よく見ると、どんぐりの表面に数箇所小さい穴が開いていた。丸い球体の中は、虫に食い散らかされているのだろう。
不意に動悸が早くなる。
伸ばした手を慌てて引っ込め、右のつま先でどんぐりを道端へ蹴り捨てた。
下を向き俯いたまま、右拳を左胸に当て激しく脈打つ心臓を落ち着かせようと、ゆっくりと息を吐く。

MOA 「うっ。本番はこの先なのに。痛たたたたっ。
   考えるな!考えるな!頭を空にしろ!!
   ひゅー、ふぅ~っ。ひゅー、ふぅ~~~っ。」

最愛は頭を両手で押さえて深呼吸する。
そしてそのまま、一歩づつ進んで行く。
左前に工事用の黄色いフェンスが見える。歩く速度が上がる。工事用フェンスの向こうに建物の角が見え始める。2階のベランダの端が見え始めた辺りでピタリと足が止まる。

MOA 「やっぱり、この位置か。
   この位置に立つと急に帰りたくなるんだ。
   建物の一部がギリギリ見える距離。
   ここより前に行こうとすると・・・。
   痛たっ!
   少し薬が効いてきたな。頭が痛くなるが、耐えられない痛みじゃない。
   けど、このまま歩いて行くのはシンドいな、今回も同じ作戦で乗り越えるか。」

最愛はじりじりと半歩程下がり、ポケットからティッシュで包まれたものを取り出す。
ティッシュを開いて行くと、中にはチョークが入っていた。そのチョークで一気に足元に横線を引く。
よく見ると、薄く消えかけたチョークの線が同じ位置に何本か引かれていた。
線を引き終わると、最愛は手に持ったチョークを慌てて再度ティッシュに包みポケットにねじ込んだ。
そして10m程、来た道を戻り、大きくため息を付く。

MOA 「ふぅぅ。
   チョークやチョークで書いた線を見てもイヤな気分になる。それどころか、書いたあの線に触ろうと思っても触れない。ホント意味がわかんないよ。
   でも、準備はできた。
   あとは、一気に飛び越えるだけだ。」

そう言うと、最愛は何度も何度も深呼吸を繰り返し、キョロキョロと前後を見廻しす。
黒塗りの車が一台、後ろへと通り過ぎていった。
続く車は無い。歩行者も相変わらずいなかった。再度周囲に誰もいない事を確認する。そして、意を決したように頷くと、一気に走り始めた。
引かれた横線を一瞬だけチラッと見る。そしてその手前に右足を踏み込むと、走り幅跳びの要領で大きくジャンプした。
ジャンプした直後、空中で一瞬身体がビクッと硬直する。そしてタタタンと着地と共に数歩進むとがくりと膝を付き、両手の平で頭を強く挟み込み、唸り始めた。

MOA 「ぐぅぅ、ぐあぁぁぁぁぁ!!」

頭を押さえ声を上げながら痛みに耐える。最愛は唸り声を上げながら、よろよろと立ちあがり、そして一歩一歩とふらつきながら進んでゆく。30m程進んだ所で左の土塀に背中を預け、そのままずるずると座り込んだ。

MOA 「うぐっ!ぐあぁぁぁぁ!
   痛みは慣れる!もうすぐ慣れる!!」

カバンの中から水とピルケースを出し、震える手で錠剤を4錠、水と共に飲みこんだ。
最愛の両目から、ぼろぼろと涙がこぼれていた。
水のペットボトルのキャップを締めた。ペットボトルが手から離れ、足元の方にゴロンゴロンと転がった。
最愛は両膝に顔を埋め、背中を震わせる。
眠ってしまったかの様に、その格好のまま10分ほど動かなかった。
最愛が、深いため息と共に、ゆっくりと顔を上げる。
そして正面に見えるコンクリート打放しの建物を睨みつける。
視線の先は2階に見えるベランダの腰壁の上に見える割れた窓の向こうだった。

両拳を握り、人差し指の第二関節で左右のこめかみをグリグリと擦る。
流れる涙をハンドタオルで拭い、大きく鼻を啜る。

MOA 「毎週、この激痛を味わいにここへ来るなんて、ドMかよっ!
   はぁぁぁ、痛いなぁ。
   でも、この痛みを越えなきゃ、今の状態が何なのかわからないし。」

建物の2階の窓を見ながら、色々と考える。
最初に3人でここに来た時、引き返した場所。あそこまで近づくと、無性に引き返したくなる不思議について。
そこを乗り越えると、強烈な頭痛に襲われる事について。
ひめたんがいう『あの日』について考えるだけで頭痛が始まる事について。

MOA 「『あの日』は実際に有ったんだと思う。
   でも、3人共に何も覚えていない。
   レッスンが終わって、反省会してそのまま帰って寝た。そして次の日の朝だった。
   『あの日』の数日前から記憶が曖昧だ。昨日何してたか忘れるなんて事はよくあるけど、やってた事を言われれば思い出す。
   ママに聞いたら、『夜中に寝てる最愛をひめたんが連れてきた。』って言ってた。
   なのに、夕方から夜までの記憶がどうしても思い出せない。思い出そうとすると・・・
   痛たたっ!ほら、また頭痛が強くなる。
   一年前に最愛達はここで何かをして倒れたんだ。」

更に最愛は、こめかみを押さえながら、色々と考える。
今不思議だと思ってた事も、今年の6月に入るまで、まったく不思議と思わなかった事。
この建物の前まで辿り着ける様になるまで、2ヶ月間もかかった事。
近付くにつれ、頭の中のもやもやが増え断片的に何かを思い出しそうになる事。
チョークを見ると気分が悪くなる事。
そして、3人が『あの日』を境に変わってしまった事。

MOA 「由結も すぅちゃん も気付いてないけど、『あの日』を境に変わった。
   すぅちゃん は、ライブ中に笑う様になった。怖いモノが減った。だって、あんなに怖がってたカエルを見ても怖がらないなんて変だよ!スタッフはライブの経験を積んで無敵感が増えたって喜んでるけど・・・。怖いモノ知らずって感じだよ。
   由結は、部屋の隅とか一点を見てる事がある様になった。赤ちゃんみたいに。何か最愛達が見えていないモノが見えてるみたいだよ。・・・あれをやると、突然寝るんだ。インタビューの最中だって関係なしに寝ちゃう。以前から寝ちゃったりしてたけど、何かが違う。あと、緊張しなさ過ぎる。ステージに出る時スキップで出て行くなんて、緊張委員長って言われてた由結には考えられない。ステージ出る直前まで緊張して色々心配してたのに!
   ・・・最愛も変だ。最愛も怖いモノが無くなって、あまり緊張しなくなった。町を歩いてて交差点とかに黒い靄が見える時がある。最愛の部屋の押し入れが何故か開ける事が出来なくなった。そんな変化が6月まで不思議に思わなかったんだ!
   6月・・・、ドームが2daysと発表されてからだ。急に全てが不思議に感じた!
   ドームが2days・・・赤い夜と黒い夜。うがっ!!
   ぐあぁぁぁぁ!痛い!痛い!痛い!!
   今日こそ、この車道の向う側、建物の前まで行くって決めたんだ!!
   あぁぁぁぁぁ!!頭が、頭が割れるっ!!!
   ノイズがっ!!建物にノイズがっ!
   ち、チョークの文字がぁぁ!!!!
   人が!ノイズの中に人が見える!!2階のベランダに女の人が2人・・・見える!!!
   誰なのっ!!!あなた達は誰なのぉぉぉ!!」

最愛は背中を土塀に預け、痛みに堪えながらゆっくりと立ち上がる。頭皮を掻き毟りながら、よろよろと前に進む。真っ赤に充血した眼を見開き、叫び声に近い苦痛の声を上げる。
一歩、一歩と車道を渡ってゆく。
反対車線の路側帯を越え、専門学校前にだけある縁石を跨ぎ歩道を歩く。
右手を前に伸ばしてゆく。
中指の先が、黄色い工事用フェンスに触れる。
触れた瞬間、最愛は電撃の様な鋭い痛みに全身を襲われた。

MOA 「あがあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!
   ・・・最愛は・・・あなた達を・・知ってるっ!!!
   ・・あ・あなた・・・達は・・・」

言葉を残したまま、最愛は糸が切れた操り人形の様に左へと倒れていった。
左腰をレンガ調の歩道に打ち付け、頭を掴む左手の肘、左肩、左手の甲と地面に打ち付けていった。
薄れゆく意識の中で、誰かが足の方向から近付いて来るのが見えた。黒いスーツを着た男性に押される車椅子を。
音も無く近付いて来る車椅子には・・・。
ここで最愛の意識は蝋燭の炎が消える様に途切れた。
・・・。
・・・。

翌日起きると、最愛の頭は妙にスッキリとしていた。
起きてすぐに1回目の軽い歯磨きをし、柔軟を5分ほど行うと、日課のウォーキングに出かける。
既に日が少し昇っている為、30分程歩くだけで、背中は汗でびっしょりとなった。
マンションに戻り玄関を上がると、着ていたウェアと下着を歩きながら脱ぎ捨て、まとめて洗濯機に放り込む。そして、そのまま浴室に入りシャワーを浴びた。
浴室を出ると、母親が籠の中に下着と部屋着を用意してくれていた。
身体に付いた水滴をバスタオルで一気に拭き取り、部屋着に着替える。
キッチンに飛び込むと冷蔵庫を開け、青汁をコップのフチまで注ぎ入れ、一気に飲み干すと、再度脱衣所に戻る。長く伸びた髪をタオルで巻き上げるて、再度念入りに時間をかけて歯を磨く。
ここまでが最近の最愛が行う朝のルーティンだった。
リビングに出ると、母親が厚切りのトーストとサラダと牛乳を用意してくれていた。
それを一気にガツガツと頬張る。

ママ 「どう?具合は?ダルかったりしない?」
MOA 「ん?超ベリベリ元気だよ!」
ママ 「ホントに?昨日は驚いちゃったよ。」
MOA 「なにが?」
ママ 「覚えてないの?熱射病で倒れた最愛を親切な人が、ここまで車で運んできてくれたのよ。」
MOA 「え?なにそれ?」
ママ 「呆れた。ホントに覚えてないのね。最愛が道端で倒れたのを見て、そばにいた方がたまたまお医者さんだったから、その場で看病してくれたんだって。でその方が家に電話してくれて、『単なる熱射病だから』ってマンションの前まで車で連れて来てくれたのよ。さすがお医者さんね。黒塗りの高そうな車に乗ってたわ。」

MOA 「へぇ~。」
ママ 「なにそれ、他人事?
   で、重たい最愛をその人とママとで部屋まで運んできたのよ。ホント重たいったらありゃしない!」
MOA 「ふ~ん。その人1人だったの?」
ママ 「車の後部席に患者さんの女の子を乗せてたかな?
   『何かお礼でも』って言ったんだけど、車に待たせてるからって急いて帰って行っちゃったのよ。」
MOA 「えっ?お礼してないの??
   ダメだよお礼しなきゃ!」
ママ 「ママだって気が動転してたし、バタバタァって感じだったし。」
MOA 「名前は?どこの病院のお医者さんか聞いてないの?」
ママ 「名前聞き忘れちゃったぁ。ホントにバタッバタァって帰って行ったから。あっ!でも、最初に電話かけて来た時に『なんとか病院の医者をしてる者です』って言ってたわ。え~っと何だっけ?ちょっとまって!電話横のメモ帳に書いたかも!」

最愛は、トーストを咥えたまま、キャビネットの上の電話の前へと移動した。
着信履歴ボタンを押してみる。昨日の着信は、非通知が2件。電話番号は表示されなかった。
電話機の横のメモ帳をみる。

   ≪コクエイ記念病院≫

と書かれてあった。

MOA 「コクエイ?どんな字だろう?国営?」
ママ 「さぁ?」
MOA 「ホントにアテにならないなぁ。最愛はお礼とかお祝いとかゼッタイにしなきゃ気が済まないの、ママ知ってるじゃん!!」
ママ 「ママ、最愛の習性とか知ーらない!それにその人『医者として当然の事ですから、お礼されても困ります』って断ったのよ。一応ね、ママもお礼しようと名古屋の家に戻った時に買った『ういろう』を3本出したんだから!」
MOA 「よりによって『ういろう』かよ。で、最愛はどこで倒れてたの?」
ママ 「さぁ?」
MOA 「それも聞いてないの!?」
ママ 「もう、怒んないでよ!!バッタバタだったんだから!!」
MOA 「バッタ、バッタってママはそればっか。
   ・・・あれ?
   そう言えば、最愛は昨日何処に行ったんだっけ?
   えーっと、レッスンしてぇ。う~ん。その後は??
   たしか、ケーキ食べに行くの断ってぇ。ん?なんで断ったんだ??最愛がケーキ食べに行くの断るだなんて!?
   あれれ??家に帰る途中で倒れたのかな??昨日なにか家の用事あったっけ?」
ママ 「さぁ?バッタだったから覚えてないわ。」
MOA 「バッタなのかよ!!」

最愛は朝食を終えると、ソファの上で横になりスマホで検索を始めた。
キーワードは『こくえいきねんびょういん』。
一件の病院が引っ掛る。
『黒栄記念病院』
最愛には聞き覚えの無い病院の名前だった。

最愛は思い立ったら直ぐに行動しなければ気が済まない。
まずは、スマホで調べながら今日の移動時間を計算する。
急いで着替えながら、今日の行動をシミュレーションしてみる。
今日のBABYMETALのレッスンは、今までと異なり中学校の校庭を借りて行うとの事だった。ドームでの舞台上の距離感を掴む為にダンスとフォーメーションをメインで行う様だ。集合時間は13時。今から行く目的地での滞在時間を30分とすればギリギリ間に合う。
カバンの中をチェックし、財布やスマホ等を指差し確認しながら、カバンの中に納めてゆく。ふと、カバンの中に見慣れぬペットボトルを見つける。飲みかけの水だ。それと共に大量の痛み止めの錠剤も。最愛は首を傾げ、水と錠剤の入ったピルケースをカバンに入れ直した。
そして、玄関を勢いよく開けるとマンションの階段を2段飛ばしで駆け下りていった。

最愛は最寄駅のロータリーに付くと駅前のスーパーに立ち寄った。スーパーのサービスセンターに向かうと煎餅とおかきの詰め合わせを買い、スーパーを出ると駅の改札へと向かった。
駅の改札に付くと改めてスマホでルート検索する。行き先は『黒栄記念病院』。ルートと出発時間と乗り継ぎ駅を確認する。丁度電車が来る時刻だった。急いで改札を入り、ホームへの階段を駆け下りているとタイミング良く目的の電車が入ってきた。
電車に飛び乗る。
最愛は電車を2回乗り継ぎ最寄の駅へと付いた。ここから更にバスへと乗り継ぐ。
最愛はバスの中で『黒栄記念病院』についてスマホで検索を掛けてみる。
内科、外科、産婦人科、眼科、耳鼻咽喉科、心療内科、神経内科、精神科と色々と検索結果が出て来る。いわゆる総合病院という形式なのだろう。
施設概要を見て見るが、何棟にも分かれている様だ。

スマホに集中していると、『次は黒栄記念病院前』との車内アナウンスが流れた。最愛は慌てて顔を上げ、カバンから財布を取り出し、降りる準備を始めた。
バス停に到着すると、乗車していた人々の8割が立ち上がった。最後尾に座っていた最愛はその様子を後ろから眺める。老若男女、あらゆる年代の人達が降りてゆく。

一番最後に最愛はバスを降り、目の前に見える白い建物を見上げた。
漆喰の様な白い塗り壁は地中海を思わせる。建物中央には青いドーム状の屋根が付いており、モスクの様な印象も受ける。
宗教の寺院的な不思議な形状をした巨大な建物だった。
敷地には、この3建物以外にも5階建ての建物や15階以上のビル等も併設されていた。

MOA 「う~ん。こりゃまいった。
   来ればお礼が出来るって思ってたけど、ここまでの病院だったとは、何処に行けばいいんだ?畳んだ車椅子と一緒に患者さんも乗ってたって言ってたよなぁ。整形外科か?外科か内科か・・・まぁ総合案内に行けば何とかなるかな?」

バスを降りた人々が次々へと飲み込まれていく正面入り口へ、最愛も向かった。
建物に入ると、エントランスは吹き抜けになっており、見上げると外からみた際にモスクと感じたドーム状の屋根の内側が球状の天井として見え、その球状の天井には青空が描かれていた。
最愛は正面にある『01総合受付』と書かれた受付カウンターへと向かう。カウンターは横は20m程あり、中では数十人もの医療事務員達が忙しなく作業を行っていた。
最愛は総合受付の前で、どのように声を掛けたら良いものか?と悩んでいると。カウンター内で作業をしていた1人の女性が、中から出てきて最愛に声を掛けてきた。

事務員 「何かお困りですか?診察ですか?それともお見舞いでしょうか?」
MOA 「あっ!いいえ違います。
   あの~っ。実は昨日、こちらのお医者様と思われる方に道で倒れていた所を助けて頂いたのですが。それで、お礼が言いたくて・・・。」
事務員 「お名前を伺っても宜しいですか?」
MOA 「菊地といいます。あっ、フルネームは菊地最愛です。」
事務員 「菊地様ですね。それでは、こちらにどうぞ。ご案内しますので、いらして下さい。」

そう言うと、女性医療事務員が歩き出した。
最愛は突然の案内に驚きつつも、黙ってその事務員の後ろを追いかけた。その時、カウンター内で小声で話す他の事務員の声を最愛は聞き逃さなかった。「本当にこの写真の女の子が来たね。」との言葉を。

最愛の前を歩く女性医療事務員は、驚く程に背筋が伸びており、とても姿勢が良かった。髪を団子に束ねている為、白いうなじが目の前に見える。うなじから腰まで常に一直線で、身体の軸がぶれる事無くスタスタと歩いてゆく。最愛はその背中に声を掛ける事が出来ず「社交ダンスとかしている人かな?」とかその事務員の人となりを想像しながら、置いて行かれまいと大股で追いかけ続けた。
両側白い塗装壁の廊下を長い距離歩てゆく。事務員の歩く速度が徐々に上がり始める。大股歩きでは置き付けず、最愛はたまに小走りになる。
途中に階段やエレベータが有ったが素通りだった。「このまま裏口から出て行くのでは?」と思った矢先に、事務員は突然立ち止ると回れ右をし、『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた両開きの扉を押し入ってゆく。開いた左右の扉が閉まってゆく中、最愛が身体を横にし、隙間をすり抜ける様に扉の内側へと入る。扉の向う側は、がらりと雰囲気が変わった。壁には木目調のウッドパネルが張られており、床もポリ塩化ビニルの長尺シートから毛足の長いフロアカーペットへと、そして木製の手摺すらも材質が高級な物へと変わっていた。ふと正面を見ると15m先のT字を事務員が左に曲がろうとしている。「ヤバい!まかれる!」と最愛は全力で走り事務員を追いかけT字を左折した。
左に曲がった先は袋小路だった。目の前に事務員が横向きで立ち止まっていた。最愛は慌てて、止まろうと足を踏ん張りブレーキを掛けるが、毛足の長いカーペットフロアの所為で滑って止まらない。腕を回すという意味の無い抵抗が何故か功を奏し、事務員に激突しそうになる直前で、なんとかギリギリ止まる事ができた。

MOA 「ふぅぅ。あっぶなかったぁ!!」
事務員 「菊地様。菊地様の学校の廊下は走っても宜しいのですか?」
MOA 「あっ、いいえ。」
事務員 「学校と同様に、当病院も廊下を走ってはなりません。御理解出来ますか?」
MOA 「うっ!わ、わかりました。ごめんなさい。」
事務員 「理解して頂けた様で。では、こちらのエレベーターから上の階へと移動します。」

事務員が上体を30度に曲げ、エレベータの昇ボタンを押す。
すぐに木目調のダイノックシートが貼られたエレベータの扉が開いた。病院のエレベータだけあってベッドが2つは余裕で入りそうな広さだった。
事務員が先に入り、操作パネルの前に立つ。最愛が後を追う様に入り真ん中一番奥に立った。
エレベータは音も震動も無く静かに上昇してゆく。
この広さのエレベータの中、無言でいる事に最愛が耐え切れなくなり、気になり続けていた事を質問してみた。

MOA 「あのぁ。すみません。質問してもいいですか?」
事務員 「はい、なんなりと。」
MOA 「私が来る事を知っていたのですか?」
事務員 「何故、そう思ったのですか?」

質問に質問を返され、最愛はドキドキする。
振り向きもせず、背を向けたまま受け答えする女性医療事務員の背中が、質問を拒否しているかの様に見えてしまう。

MOA 「対応が早すぎる気がしますし、カウンターの中にいた他の事務員さんが『写真の娘が来た』って言ってた様に聞こえたので。」
事務員 「逆に伺いますが、菊地様は芸能やスポーツ等での有名人ですか?」
MOA 「は、はい!芸能関係でアイドルというか、アーティストというか、そんな感じの事をしています。」
事務員 「そうですか。そちら方面に知識が薄いもので、失礼な質問をしてしまいすみませんでした。」
MOA 「いえいえ!とんでもないです!まだまだ一部の方にしか知られていないので、知らなくて当然です!!」
事務員 「当病院内にも菊地様を存じ上げる者がいた様ですね。今朝、菊地様がいらしたらご案内する様にと通達がありましたもので。」
MOA 「そう言う事ですか。私が芸能活動をしている事を助けた頂いた方に母が伝えたのかもしれませんね。」
事務員 「そうですね。そろそろ着きますよ。」

最愛は見上げると、ドア上の階表示が最上階の18階を指していた。
ポン。と静かな音と共にエレベータが止まる気配がした。やはり震動は無い。
ゆっくりとエレベータの扉が開く。
正面には、木製の大きな扉があった。
女性医療事務員がエレベータを降りると木製扉の前に立ち、扉に付いたドアノックを『トントン、トントン』と4回叩き、一呼吸置いてからゆっくりと開いた。
室内は、高級ホテルのスイートルームの様だった。
最愛は一歩一歩と気後れしながら俯き気味で入って行った。
女性医療事務員は、最愛が中に入ったのを確認すると

事務員 「菊地様をお連れしました。受付の方に戻らせて頂きます。」

とだけ告げ、扉を閉めるのと共に出て行ってしまった。

最愛は広い部屋に一人取り残され、誰かこの部屋に居ないかと辺りをキョロキョロと見回した。
目の前にはソファーの応接セットがあり、右側には10人で食事や会議ができるテーブルと椅子が置いてあった。テーブルや応接セットの正面の壁には60インチ程度の巨大なモニターが埋め込まれていた。
最愛は数歩前に出る。
10人掛けテーブルの右側には対面式キッチンのカウンターがあり、背の高い丸椅子が4脚置いてある。
テーブルと反対側の左側を見ると、12畳ほどのスペースがあり、壁際には背の低いソファーがL字に囲っている。やはり60インチ程のモニターが壁に埋め込まれていた。
右側に1つの扉。左側には3つの扉があった。右側の扉は、若干簡素でお手洗いの扉の様に思えた。
左側の3つの扉の内、一つの扉が僅かに開いていた。最愛は、その開いた扉に向かって歩く。
先程、部屋から出て行った事務員がその扉に向かった声を掛けた様に思われたからだった。
最愛は僅かに開いた扉の前に立つと、「すみませーん。誰かいますかぁ?」と声を掛けながら、扉に手を掛け開いてゆく。
思った以上に扉が分厚く重い。
防音性能があるのかもしれない。
開く隙間に頭だけを入れ、中の様子を伺う。
セミダブルサイズのベットが2台、頭側を正面の壁に向け置かれていた。右側のベッドには誰か寝ている様で布団が膨らんでいる。左側のベッドには誰もいない。右ベッドの右側には何種類もの医療機器が置かれ、何かの数字やグラフをモニターし続けていた。

2台のベッドの間には2m程の間隔が有り、その間のスペースにL型デスクがはめ込む様に置かれ、デスクの正面には15.4インチ液晶の白いノートパソコンが置かれ画面には黒バックに黄色や緑の線が縦横無尽に引かれていた。デスクの左側には70度程の角度を付けたホワイトボードの様な板が取り付け固定され、一人のスーツ姿の男性がそのホワイトボードに向かい、ノートパソコンと見比べながらシャープペンシルと定規を使いしきりに作業をし続けていた。
部屋の中には、クラシック音楽がかかっている。ベートーヴェンの「月光」の様だった。
もう一度、その男性に向かって最愛は大きな声で呼び掛けてみた。

MOA 「すみませーん。」

やっと、スーツ姿の男性が最愛に気付いた様だ。
片手を上げ、リモコンを操作し音楽のボリュームを下げる。

男性 「菊地最愛ちゃんかな?」
MOA 「は、はい!そうです。」
男性 「今、そっちに行くから、ちょっと待っててね。」

男性はそう言うと立上り、右ベッドの右側の医療機器のモニターをチェックした。
そして、寝ている人の耳元へ顔を近づけると、何かを囁き続けた。話している内容を最愛は聞き取る事は出来なかったが、男性の表情が明るい事からして、良い報告に違いなかった。
寝ている人は、微動だにしない。睡眠中なのだろうか。
男は、顔を上げると最愛に笑いかけ、扉に向かって歩いてきた。

爽やかな笑顔だったが、どこか影がある。50歳後半ぐらいだろうか、髪は全て白髪だった為に正確な年齢を推測する事が出来ない。痩せ型で身長は180cm程だろう。
男性はそのまま扉を開き部屋を出ると、最愛を入口正面にあった応接セットのソファーへと案内し、そのままキッチンの方へと向かって行った。

男性 「少し話しをしようか。飲み物はオレンジジュースとアイスティーがあるけど、どっちが良いかな?」
MOA 「オレンジジュースを氷抜きでお願いします。」
男性 「では僕もオレンジジュースの氷抜きにしよう。」

男性は、食器棚からタンブラーグラスを2つ取り出し、冷蔵庫で冷えたオレンジジュースを注ぎいれた。
片方のコップにだけ、ストローを指し最愛の下へ持って来た。
応接セットのテーブルにコップを2つ置くと、「どうぞ」と最愛に座るよう促し、革張りのソファーに腰を下ろした。
最愛は、とても喉が渇いていた。オレンジジュースをストローを使い1cm分程減らす。

MOA 「あの。私を助けて頂いたお医者様でしょうか?」
男性 「う~ん。助けたのは僕だな。なんだけど、一つ嘘を付いてしまったのを謝らなきゃならない。僕は医者ではないんだよ。」
MOA 「えっ?お医者様ではないんですか?」
男性 「この病院の関係者ってのが正しいのかな。君の自宅に電話した際にお母さんに安心して貰おうと思ってね。些細な嘘を付いてしまった。すまないね。ちなみに君の自宅の電話番号は君の携帯の履歴から掛けさせて貰ったよ。」
MOA 「あのぉ~。携帯・・・ロック掛ってませんでしたか?」
男性 「うん。掛ってたね。君の左中指の指紋で勝手に解除させて貰ったよ。緊急事態だったからね。許して欲しい。」
MOA 「そうだったんですか。え~っと・・・お名前を伺ってもいいですか?」
安森 「そう言えば、自己紹介がまだだったね。僕は安森です。今は設計屋をやってる。」
MOA 「安森さんですか。設計屋さんってどんなお仕事ですか?」
安森 「建物の設計をしてる。ちなみにこの建物の図面を引いたのは僕だ。昔の話だけどね。今は別館の建て直し用の図面を引いてるんだ。」
MOA 「建築士でしたか。それで、この病院の関係者って事なんですね。」
安森 「いや。それもあるが・・・。まぁこの病院の元身内。いや、今も身内か。
   色々あってね。最愛ちゃんに言う事じゃないな。
   娘の一人が入院しているから、言葉に甘えて職場を兼ねてここを使わせて貰ってる。」
MOA 「そうなんですか。」

最愛は部屋をもう一度見渡した。
政治家が入院する様な豪華な病室。
奥の部屋で眠っているのが娘なんだろうと最愛は想像した。
この部屋で娘と共に過ごす建築士。
謎だらけな状況である。聞きたい事は山程あるが、聞いて良いものか判断がつかない。

MOA 「凄い部屋ですね。」
安森 「あぁ。そうだね。普通に入院してたらとても高いだろうね。身内価格って事で無料だけどね。」
MOA 「無料なんですか??」
安森 「ははは。身内で良かったよ。既に2年以上入院してるからね。」
MOA 「2年もですか。お嬢さん、重い病気なんですか?」
安森 「怪我をさせてしまってね。意識が戻らないんだ。
   僕には2人の娘がいてね。その2人の娘が2年前事故にあってしまってね、意識を失ってしまった。
   長女であるもう一人の娘は1年前に意識を取り戻したが、次女であるあの子の方は・・・。」

安森はそう言うと先程いた部屋の入口を振り向いて眺めた。
その瞳には、寂しさや後悔や苦悩といった思いが混ざり合った複雑な色を宿していた。

MOA 「す、すみません。思慮のない事を聞いてしまって。」
安森 「いや、いいんだ。
   今日、最愛ちゃんが来てくれたのも神の導きだと思うんでね。」
MOA 「『神の導き』ですか?ところで、私の事を知っていたのですか?」
安森 「僕はあまり詳しく知らないんだ。娘達が君たちのファンだったようでね。
   僕自身はメタルというジャンルに馴染みがなくてね。娘が君たちの映像を見てるのを横目で見る程度だから、顔と名前を知ってる程度なんだ。すまないね。」
MOA 「いえ。名前と顔を知っていただけているってだけで嬉しいです!
   あっ!そうだ!助けて頂いたお礼をお渡ししてませんでした。」

最愛は足元に置いた紙袋を手に取った。

もう一度、部屋を見渡す。豪華な調度品が目に入る。オレンジジュースの入ったグラスも無名のタンブラーではなくバカラグラスだった。

MOA 「す、すみません。本当につまらない物ですが、助けて頂いたお礼です。」
安森 「おやおや、気を使わせてしまったね。この感じだと、中身はお煎餅かな?」
MOA 「は、はい!」
安森 「お煎餅は大好物だよ。貰い物の中でも嬉しい部類だ。これを選んだのはお母さんかい?」
MOA 「いえ。私です。私もお煎餅が大好きなので。」
安森 「最愛ちゃんも煎餅が好きかぁ。では、早速開けて一緒に食べようか。」

安森はそう言うと、豪快にビリビリと包装用紙を破りブリキの缶を開けた。指を差しながら中に入ったお煎餅とおかきを選ぶ。中から包装された一枚の煎餅を取り出すと、最愛に缶を差し出す。
最愛は、海苔煎餅を選んだ。

安森 「最愛ちゃんは海苔煎餅かぁ。僕はね、昔からザラメ煎餅が大好きなんだよ。
   僕には母親がいなくてね。だから幼い頃に幼稚園から帰ると親父の仕事場である建築設計事務所が僕の遊び場だった。勉強中の若い設計士達が数多く在籍する事務所でね。学生向けの講習会とかも事務所主催で多くやっていた事もあって、遊び相手に困らない環境だったのさ。時間が空いた建築士見習い達や講習会前後の学生が代わる代わる遊び相手になってくれてたんだ。親父が事務所の所長だからチヤホヤしてくれてたんだよね。まさに王子様扱いってヤツだったのさ。あははは。
   でもね、そんな中にも僕の天敵がいてね。
   その事務所には若い女性の事務員さんが一人いたんだ。ついつい遊びに夢中になって騒いでしまうと、その事務員さんに『夜一!静かに!!』と怒鳴られて怒られてしまうんだ。『ヨイチ』ってのは僕の下の名前ね。その事務員さんだけは、僕の事を遠慮なしで怒る。悪ふざけが過ぎると拳骨をゴツンと喰らう事すらあった。だから、幼き頃の僕はその事務員さんが怖くてね。こっそり『恐怖の大王』って呼んでたのさ。
   ところがね、その恐怖の事務員さんも、必ず僕に優しくなる時間があってね。
   それが毎日3時のおやつの時間だった。
   3時になると、オレンジジュースとザラメ煎餅を1枚くれるんだ。笑顔で僕にくれるんだよ。それを恐怖の大王と2人で食べるのさ。
   それが・・・僕には楽しかった・・・楽しみだった。
   今でもザラメ煎餅を食べるとね。ザラメの甘さが、僕の甘く苦い記憶を思い出させてくれるのさ。」
MOA 「そんな思い出が。お煎餅を喜んで頂けて安心しました。」
安森 「君にもそんな記憶はあるかい?楽しかった記憶。怖かった記憶。思い出は宝物だ。ちゃんと君の中に残っているかい?」

MOA 「え~っと。楽しい記憶はいっぱいあります!!BABYMETALのライブの記憶だったり、友達との記憶だったり。怖かった記憶は・・・。パッと思い出せませんが、たぶんあると思います。
   今の記憶の話で思い出したのですが、私はどこで倒れてたのでしょうか?
   恥ずかしい話なのですが、倒れる前の記憶が曖昧で覚えていないのです。」
安森 「覚えていないか。・・・道路でだよ。歩道で倒れるのを見てね。」
MOA 「どこの辺りですか?駅から近い場所でしたか?」
安森 「どの辺りだったのかなぁ。
   ・・・そんなに倒れた場所が気になるのかい?」
MOA 「えぇ。まぁ。
   思い出そうとすると頭に靄がかかった様になって、少し頭が痛くなるんです。」
安森 「今、何時かな?うん。あと1時間は戻ってこないな。
   最愛ちゃん。今、君は満ち足りてるかい?
   心に穴が空いた様な違和感はないかい?」
MOA 「え~っと。どういう意味でしょうか?」
安森 「今、『倒れる前の記憶が曖昧』って言っただろ?
   そういった違和感は他にないかい?
   倒れる前の記憶だけでなく、ポッカリと抜けた記憶の穴はないかい?」
MOA 「穴ですか?違和感は・・・たぶん、無いかと。
   ドームのライブ前だし、足りない事だらけで焦るって事はあったも日々充実してますし。
   ただ倒れる前の事が頭に引っかかって・・・。
   ・・・。
   いや、何か・・・何だろう・・・。
   何か忘れている事があった様な。
   何かが気になってて・・・。
   何かを取り戻そうと・・・。
   恐怖の記憶・・・?
   あれ?最愛が怖かったモノって・・・。」

安森 「おっと。君を見つけたのは、君の家から1.5km程度の近くに駅がある場所だ。
   家に帰ろうと歩道を歩いている時に熱中症で倒れたんだよ。倒れる姿が車から見えて僕が助けたんだ。
   日差しが強かったからね。熱中症で倒れる時は意識が混濁するから前後の記憶が曖昧になるんだよ。」
MOA 「・・・はぁ。そんなものですか?
   駅の近くの歩道ですか。」
安森 「混乱させてしまう事を聞いてしまってすまなかったね。倒れる時の様子から頭は打ってないとは思ったんだけど、念の為に聞いてみただけさ。
   受け答えがしっかりしているから問題ないよ。心配はいらない。大丈夫だ。うんうん。」

最愛は安森の畳み掛ける様な口調への変化とその態度をいぶかしむ。が、苦笑いしか出来ない。
安森が何かを隠したのはバレバレだが、それが何だったのか最愛にはわからなかった。安森が困り顔になってしまったので、別の話題を振ってみた。

MOA 「あと、母が言っていたのですが、助けて頂いた時に女性の方とご一緒だったんですよね?」
安森 「あぁ、もう一人の娘と一緒だった。」
MOA 「そのお嬢さんにもお礼が言いたいのですが。
   私たちのファンなんですよね?お会いして直接お礼したいのですが。
   あと、眠られてるお嬢さんにも、私が何か出来ることはないですか?たとえはサインとか。
   2人のお嬢さんは、なんという名前なんでしょうか?」
安森 「...。」

安森は左手の人差し指と中指を眉を撫でながら目を瞑り考え込んでしまった。
その様子を見ながら最愛は安森からの返答をじっと待つ。
沈黙が続く。

最愛は沈黙に耐えられず、オレンジジュースを手に取った。
ストローを咥え音が出ぬ様にゆっくりと吸い、口内にオレンジジュースを含む。
緩やかに喉に流し込むが、最後に飲み込む際「ゴクッ」と音をたててしまい、最愛はあわてて左手で喉を押さえた。
その音に反応したのか、安森は目を開き最愛の瞳を覗き込んだ。

安森 「最愛ちゃん。君は『魔女』や『幽霊』、『超能力』の存在を信じるかい?」

安森が沈黙を破り話した一言は、最愛の質問を無視する一言だった。
最愛は突然の一言に困惑し、返答に詰まった。
更に安森は最愛に質問を浴びせる。

安森 「最愛ちゃん。今の君は『本当の自分』かい?
   最愛ちゃん。『知らなくて良い事』はあると思うかい?
   忘れていた方が幸せだったって事はあると思うかい?
   最愛ちゃん。
   もう一度聞くよ。
   『違和感』はないかい?君だけじゃなく、由結ちゃん、すぅちゃんに『違和感』はないかい?」

最愛は、質問の意味と意図がわからなかった。

だか、わからないなりに言葉を選びながら返答した。

MOA 「・・・不思議な存在は・・・。
   幼い頃、いや最近まで、不可思議な存在を信じて恐怖を感じていた気がします。
   今は、今も。存在を信じていますが、怖いものとは・・・。
   『本当の自分』だと思います。常に自分らしく行動をしているつもりです。
   身の回りの事で『知らなくて良い事』なんて無いと思います。
   知っていれば対処できるし、乗り越える事も出来ると思います。
   『違和感』は・・・無いと思います。
   いや、何か『違和感』を感じていた様な。
   ・・・何だろう?」
安森 「君は強い子だね。
   僕も君の意見と同じだよ。
   僕はね、2年前から1年間苦しみ続けていた。髪の毛が白髪に変わってしまう程にね。
   1年前のある日。その苦しみから解放された。突然にね。
   解決した訳ではなく、単にその事を考えなくなっていたんだ。
   その事が頭からごっそりと消えて『穴』になってたんだよ。だから解放されている事すら気付かない。
   でも、『違和感』だけは感じていた。
   それが、昨日思い出した。
   ・・・。
   今は思い出して良かったと思っているよ。
   『苦しむ』事により『責任』や『愛』が生まれていた。『苦悩』や『恐怖』という感情も『本当の自分』を形成する上で、とても大切な心の動きだったんだ。」
MOA 「あのぉ。言ってる意味がよくわからないのですが・・・。」

安森 「あははは。
   突然に変な事を言ってすまなかったね。
   君は僕の娘達にとって、とても大切な特別な存在の様だからね。何が最善なのかと色々と悩んでいたんだけど、君の言葉で・・・」

パン!!

突然、何かが破裂した様な小さな音が響いた。
安森の体がビクッと反応する。

パン!パン!パパパン!!

続け様に破裂音が部屋の至る所で鳴り響く。

安森 「ふぅ。タイムアウトか。
   予定より早いな。
   最愛ちゃん、ごめんね。もう時間の様だ。すぐにこの部屋を出なければならない。」
MOA 「え?。
   こ、この音は何なんですか?」
安森 「便利な警報器みたいなモノさ。気にする事じゃない。
   では、外まで僕がエスコートしてあげよう。
   すぐに出れるかい?」

MOA 「あ、あっ。は、はい。出れます。
   でも、お嬢さん達に何か。」
安森 「大丈夫。大丈夫。ほら、急ごう!」
MOA 「でも。」
安森 「最愛ちゃんは優しいなぁ。では、この煎餅の缶の蓋に油性マジックで書いて貰おうかな。
   え~っと、マジックかぁ。ちょっと待っててね。」

安森は立ち上がると、病室兼仕事部屋への扉を開けた。
扉を開けた途端に部屋中で鳴る破裂音の音量が少し大きくなった。そして安森が部屋に入り扉を閉めると同時に破裂音はピタリと止んだ。
最愛は、その音の変化に驚ききょろきょろと部屋を見渡した。
喉が異様な程に乾く。オレンジジュースを更に飲む。
グラスをテーブルに置こうと手を伸ばした時、最愛の背後から声がかかった。

   『もあちゃん、お久しぶり。』

最愛は慌てて振り向いたが、誰もいなかった。
更に声が響く。

   『こっちに向かって来てる。
    早くここから離れて!!!』

最愛は声が発する場所を探す。壁と天井の入り隅付近の至る所にスピーカーが設置されている。テレビの上と左右に一台づつ。左右と後ろの壁と天井の入り隅付近に2台づつ。最愛はどのスピーカーから声がしたのだろうか?と思いながらキョロキョロと見渡す。合わせてカメラはどこだろう?と思って探し見渡すが疑わしき半球状のモノが天井の至る所に取り付けられている為にあっさりと諦めた。ここが病人用の病室である事を思い出し、緊急対応用の監視カメラやスピーカーがあって当然だと思ったからだった。

MOA 「すみません!誰ですか?
   そして、誰が来るんですか??安森さんの事ですか?」

最愛は声の主に呼びかけた。

   『そうだよね。今のもあちゃんは私たちの事を知らないんだよね。
    ・・・安森さんが戻ったら、直ぐに部屋を出てね。
    あと、あの人の言う事を全部信じちゃダメよ・・・。』

寂しさを含ませながら、ボリュームを絞る様に声は消えていった。
病室兼仕事部屋の扉がゆっくり開く。
扉を開き、安森が右手に黒の油性マジックペンを片手に出てきた。

安森 「最愛ちゃん、待たせちゃってごめんね。このマジックで缶の蓋にサインしてくれないかな。
   最愛ちゃんが持ってきたこの缶が家宝になるよ。」
 

最愛は今聞こえた声の事を安森に質問しようと口を開いたが「信じちゃダメよ」の言葉と安森がこの部屋から居なくなった間だけ声が聞こえていた意味を考え再び口を閉じた。
最愛は安森から油性マジックペン受け取ると。キュキュキュッとキツネマークをイメージしたMOAMETALのサインと女の子をイメージした菊地最愛のサインの両方を書いた。

MOA 「あのぁ。誰宛てのサインにしましょうか?お嬢さん達の名前は何ていうんですか?」

最愛が質問を口に出すと同時に再び音が鳴り始めた。

パパパパパン!! パパパパパン!! パパパパパン!!!

先ほどとは比較にならぬ程に音が高速で鳴り続ける。

安森 「む!まずい。リハビリ病棟を出たな。
   サインに宛名は必要ない!
   今すぐ出なければエレベータ下で鉢合わせてしまう!カバンを持って!」

安森は最愛の手首を掴み、部屋の出口に向かおうと引っ張ってゆく。
最愛は慌ててソファーに置いた肩下げカバンを右手で持ち、引っ張られながらカバンに首と右手を通し、斜め掛けに肩へかけた。
更に左手をグイっと引かれる。
立ち上る姿勢から手首を引かれた為、最愛はバランスを崩した。
引っ張られながら数歩よろけ、倒れぬ様に左足を踏ん張った。
バランスを取りながら最愛の視線が病室兼仕事部屋の開いた扉へと流れた。

扉の向こうに、誰かがいた。
朧に誰かが立っていた。
長い黒髪の女性。
素足で黒いワンピースを着ている。
首をガクンと下げて、うつむいて立っている。
顔が見えない。
でも、知っている。
そんな気がする。
うつむいた顔がゆっくりと上がる。
前髪の下から鼻先が見えた。
更に顔が上がる。
目が見えそうだ。
恐怖はない。
ゆっくりと前髪の下から瞳が覗く。
心の奥を見る様な虚な眼差し。
最愛は頭の中に、ぽっかりと穴が開いている感覚を自覚した。
くり抜かれた感情を自覚した。
心臓を握り潰される。
ぎゅっぎゅっぎゅっと連続で握り潰される。
握りと共に起こる拍動により血液が流れ、自覚してしまったその穴に向かって流れ込む。
流れ込んでいるのは血液ではない。失っていた感情が穴へと流れ込み満たしてゆく。
腰から脳天に向かって一気に産毛が逆立ってゆく。
両腕に鳥肌が立ってゆく。
忘れていた感情が穴を満たしてゆく。

再び最愛の左手が強く引かれた。
最愛は一瞬だけ手を引く安森を見、すぐに視線を扉へと戻す。

誰もいなかった。

安森は最愛の腕を引く中、一瞬最愛の身体が固まった様に感じた。
お構いなしに再び強く最愛の手を引っ張る。時間がないからだ。
部屋の外へと駆けてゆく中、安森は最愛の身体から力が抜けてゆくのを感じた。
安森は左手で勢いよく入口の扉を開き、そのまま正面にあるエレベータのボタンを押す。
すぐにエレベータ扉は開いた。
最愛の手首を掴んだまま勢いよく乗り込み、1階と閉まるボタンを連続でタタンと押した。

安森 「あっ!ごめん!腕を掴んだままだったね。
   手首は痛くないかい?
   急いで出ないとマズい状況でね。焦っていたんだ、申し訳ない。」

安森は最愛の手首を離した。
最愛の左手が力なく、だらりと下がった。
安森が最愛の顔を覗き込むと、最愛は俯いたまま見開いた瞳で床の一点を見つめ考え込んでいた。
最愛は小刻みに震え続けていた。

安森 「最愛ちゃん?どうしたの?」
MOA 「安森さん。
   誰が向かって来てるんですか?
   誰かと会わない様にする為に急いで出たんですよね?」
安森 「怖い婦長さんがいてね。
   あの部屋に勝手に人を入れると、僕が怒られてしまうんだ。
   何時間も説教されてしまうからね。困ったもんだよ。
   その婦長さんが来る診察時間になってしまったからね。最愛ちゃんがあそこにいるのは面倒な事になるんだよ。」
MOA 「安森さん。」
安森 「ん?」
MOA 「その話ウソですよね?」
安森 「え?」
MOA 「私が来る事を医療事務の皆さんが知ってました。
   朝に通知があったと言ってました。当然私が来た際にあの部屋へ通すように看護師の方達にも伝えてますよね?」
安森 「あぁ。」
MOA 「誰が向かって来てるんですか?」
安森 「魔女だ。」
MOA 「安森さん。だから本当は誰が来るんですか?」
安森 「魔女が来るんだよ。」
MOA 「ウソですよね?」
安森 「ウソじゃない。
   最愛ちゃんに『魔女と幽霊と超能力を信じているか?』と聞いたよね。
   魔女は実在するんだよ。その魔女が来てしまう。
   最愛ちゃんの事を考えると、今は会わない方が良いと思うんだ。」
MOA 「その魔女さんは、安森さんのお嬢さんですか?
   仕事部屋になってる病室にいましたよね?」
安森 「病室にいるのは次女だ。あの子は魔女ではない。」

ポン。と静かな音と共にエレベータが止まる気配がした。

安森 「1階に着くよ。
   エレベータを出たら右だ。そしてすぐ右に曲がる。廊下突き当りの扉を開けたら右。目の前に扉があるから、そこを出たら駐車場だ。駐車場まで一気に走るからね!!」

有無を言わせぬ安森の口調に最愛はうなずいた。
ゆっくりとエレベータの扉が開く。
安森はエレベータから顔だけ出すと、エレベータの外を伺う。
「よし。いないな。」と呟いたと同時に走り出した。
最愛は走る安森の後ろを追いかけた。
安森とほぼ同時に最愛はT字を右に曲がり、赤い毛足の長いフロアカーペットの廊下を2人は一気に駆け抜け、両開きの扉の前に立つ。安森が胸ポケットからカードを取り出すと左の壁にある認証BOXへ押し当てた。扉が自動で開いてゆく。まずは安森が扉の向こう側に出て様子を伺う。安森は無言で最愛に向かって手首をクイクイと曲げて『おいで』と伝え右に向かって進んだ。
最愛は安森の後を追い扉からでて右へ向くと5m先には鉄扉を安森がドアノブを回し開けるところだった。
最愛は安森と共に駐車場へと出た。
出ると同時に2人は同時に振り向いた。
ドアクローザーが働き鉄扉は自然と閉まってゆく中、廊下の突き当たり左側より車椅子が看護師に押されて曲がってくるのが見えた。安森が慌てて右へ移動し死角へと隠れる。
最愛も安森に続き右へ隠れようとしたが、目が角から現れてくる車椅子に釘付けになる。耳鳴りが警報音の様に頭の中を鳴り響き、締め付ける様な痛みへと変わってゆく。最愛の頭の中で「顔を見るな!!」と最愛の声が叫んでいた。
左手で両目を隠す。

パタン。

鉄扉が閉まり、静寂が駐車場内を包む。
肩で息をしながら安森が歩き出す。その後ろを最愛は歩きながら、早くなった鼓動を落ち着かせるよう、ゆっくりと鼻から息を吸い口から吐いた。
右手の中指の第二関節でこめかみをグリグリと押し、突然起こった頭痛に戸惑いながらデジャブを感じていた。なぜ先ほど車椅子の女性の顔を見てはいけないと感じたのか自問自答するが、頭の中の何かが自問自答を邪魔をする。最愛は普段通り考えをまとめる事が出来ない自分に苛立ちを感じる。

安森が先頭で屋内駐車場を鉄扉から車3台分歩く。
一台の黒塗りの車の前に立つとドアを開けた。スマートエントリーシステムなのだろう、キー操作をしている素振りはなくガチャリと鍵が開く音が助手席側のドアにも響く。

安森 「最愛ちゃん、この後どこまで行くの?自宅?
   そこまで話しをしながら車で送ってあげるよ。」
MOA 「この後リハーサルを兼ねたレッスンなんです。時間がギリギリで。」
安森 「では、急がなくちゃだね。
   とりあえず、助手席に乗って!」

最愛は初対面の人の車に乗ってよいものか悩んだ。
だが、聞きたい事が山の様にある。
一瞬悩む最愛へ『話を聞かなくてはならない』と最愛の心が最愛自身へ強く訴えかける。
即座の決断で安森の言葉に甘え助手席に乗る事にした。
最愛は助手席に座ると直ぐにスマホを取り出し、本日の集合場所の連絡メールを開いた。集合場所へは遅れてしまいそうだ。直接リハーサルを行う都内の中学校を目指す事にし行き先場所を安森に告げた。
安森は車を発進させ運転しながらカーナビに目的地を入力する。到着時間は1時間後。
最愛は電話をする事を安森に断わり、スタッフへ連絡を入れる。端的に「集合場所へは遅れそうなので直接レッスン場所の中学校に行きます。」とだけ伝えると電話を切った。
車は駐車場内をぐるりと回り駐車場出口を出てゆく。

その様子を駐車場の開いた鉄扉から見ている者がいる事に最愛は気付いていなかった。

車は公道の指定速度をわずかにオーバーして走行してゆく。
最愛は安森に話しかけたいが、何の話しから切り出して良いものか迷っていた。
安森がカーステレオのスイッチを入れる。
スピーカーから流れてきたのは、BABYMETALの『Tales of The Destinies』だった。
安森は、かすかに聞こえる程度にボリュームを絞った。

MOA 「私たちのCDですね。」
安森 「この曲が好きでね。」
MOA 「ありがとうございます!!」
安森 「1週間後か。」
MOA 「来週東京ドームでやる事を知っていたんですか?」
安森 「娘達がメイトだからね。そのくらいの知識はあるんだよ。
   ドーム直前じゃなければ、魔女に会わせても良かったんだがね。」
MOA 「どういう意味ですか?」
安森 「それはドーム後にわかる事だよ。
   ところで、最愛ちゃん。寒くないかい?」
MOA 「へ?走ったんで熱いくらいですけど。汗もかいてますし。」
安森 「エレベータに乗った時から少し震えてるみたいだからさ。寒いのかと思って。」

最愛は腕を組む様に両腕を抱えてた。確かに小刻みに震えている。深呼吸を繰り返しながら、自分の手の平で両腕を擦る。
足を見ると、やはり細かく震えている。最愛は腕と同じように手の平で太ももを擦った。
深呼吸を繰り返す事によって、徐々に落ち着きを取り戻してきたのか、震えがおさまってきた。
安森は運転しながらその様子を無言のまま左の目の端で捉えていた。
 
MOA 「さっそく色々質問しても良いですか?」
安森 「う~ん。その前にお腹が空かないかい?」
MOA 「お腹は空きましたが時間が。」
安森 「よし、ドライブスルーに寄ろう!!
   ファーストフードか牛丼かとんかつ定食、あとうどんに長崎ちゃんぽん、どれがいい?」
MOA 「へ?ドライブスルーって事は安森さんは運転しながら食べるんですよね?」
安森 「そうだよ。時間がないからね。うどんや長崎ちゃんぽんは、僕ぐらいの上級者じゃないとマニュアル車のギア操作をしながら食べるのは厳しいだろうね。
   最愛ちゃんは踊りながら歌うんだろ?助手席に乗りながら麺類を啜るくらい楽勝なんじゃないかな?」
MOA 「あははは♪普通にファーストフードでお願いします。」
安森 「やっと笑ったね。ほら、赤い看板が見えてきた。
   好きなハンバーガーを好きなだけ食べるといい。最愛ちゃんは5、6個食べるだろ?ポテトはLLを二つは食べるよね?奢ってあげるから、好きなだけ頼むといい。」
MOA 「そ、そんなには・・・ときどき食べちゃう時もありますが。」
安森 「あはは♪思った通りだ。いっぱい食べる子は大好きだよ♪」

そういうと、安森は大手チェーンのファーストフードのドライブスルーへ寄った。
結局、安森はビッグなハンバーガーを4つ、ダブルなチーズバーガーを2つ、チキンのハンバーガーを2つ、フィッシュのハンバーガーを4つ、てりやきのハンバーガーを2つ、ポテトのLLサイズを4つ、ナゲットの15ピースを4箱、オレンジジュースのLサイズを氷抜きで4つ。これだけの量を最愛が口を挟む間もなく一気に注文した後、最愛の方を向くと、やっと質問をした。

安森 「最愛ちゃん、他に食べたいハンバーガーとかあるかい?あと何を頼もうかなぁ・・・。」

その言葉に対して最愛は顔を横にぶんぶん振り、安森の腕を掴み追加注文を抑止した。
安森は会計を済まし、店員から商品を受け取る。手提げ付きの大きな紙袋2袋。それをそのまま最愛に渡した。
車は公道に出て走り出す。
最愛は紙袋を抱えたまま、何から手を付けるべきか判断しかねて、おろおろしていた。
安森は最愛に、運転席と助手席側に大型ドアポケット含めて3箇所づつドリンクホルダーがある事を伝え、先にオレンジジュース4本を紙袋から取り出し、自分の分をドリンクホルダーに収める様に伝えた。そして1箇所づつ開いているドリンクホルダーにポテトを差し込む様に指示をした。ダッシュボードの滑り止めシートの上にナゲットとソース、そして追加で貰ったケチャップを置く様に指示し、残りは紙袋のまま運転席と助手席の間のコンソールボックスの上に乗せる様に指示した。

安森 「さーて、食べ物に囲まれて準備万端だ。食べ始めるよ。いただきます!」
MOA 「ごちそうになります!いっただっきまーす!!」

安森は右手でハンドルを握りながらコンソールボックスに置いてある紙袋へ左手を無作為に突っ込み、ビックサイズのハンバーガーを取り出した。最愛は紙袋の中を覗きこみ、フィッシュが挟んであるハンバーガーを取り出す。
安森と最愛は無言で次々とハンバーガーを平らげてゆく。お互いにハンバーガー4個づつとポテトLL1つとナゲット1箱を食べ、オレンジジュースを1本空にした所で、二人ともピタリと手が止まった。

安森 「むむ。もう僕はお腹がいっぱいだ。」
MOA 「ビッグのダメージが半端ないです。ビッグ2つ目食べた途端にドーンと胃にきました。」
安森 「おや、大食いの最愛ちゃんが、だらしないなぁ。
   仕方ない。食べきれない分は、レッスンの後にみんなで食べる様に持って帰ってくれないかい?」
MOA 「貰っていいんですか?ありがとうございます♪」
安森 「ふぅ。食べた食べた!ポテトを摘みながら、話しでもしようか。
   僕の持論でね。『お腹がいっぱいの時に話す話しは良い方向に転がる』ってのがあるのさ。
   面倒な話し程、満腹状態がいい。で、何から話そうか?」
MOA 「お嬢さん達の事を聞いていいですか?」
安森 「答えられる範囲なら。」
MOA 「安森さんの次女さんは、病室で寝てるんですよね?」
安森 「あぁ。2年以上意識が戻らない。」
MOA 「安森さんの長女さんは、さっき車椅子で戻ってきた方ですよね?」
安森 「あぁ。彼女は少しは歩けるんだけど、すぐに疲れてしまうんだ。1年間寝たきりになると筋肉を元に戻すのにとても時間がかかる。真剣にリハビリをしていれば、とっくに走れる様になるはずなんだが、ちっとも真剣にリハビリをやらない。僕の目には、あの子が目を覚ますのを待ってる様にみえる。あの子が目を覚ましてから一緒にリハビリをしようとしてるとしか思えないんだ。」
MOA 「妹思いなんですね。」
安森 「最愛ちゃんは一人っ子だもんね。僕も一人っ子だから、羨ましく思うよ。
   そして娘達も最近まで別々に生活していたんだ。僕とも暮らしていなかった。そこも訳ありでね。」
MOA 「そうなんですかぁ。
   ところで三女さんは、黒いワンピースを着た長い黒髪の方ですか?」
安森 「ん?」

MOA 「安森さんが部屋に油性マジックを取りに行った時、スピーカーを通して話しかけられました。
   長女さんが戻ってくる事を伝えてきました。
   そしてその後、たぶん声の人だと思うんですが・・・。
   安森さんに腕を掴まれてソファーから立った時に、部屋の中で黒髪の女性が立っているのを見ました。」
安森 「う~ん。・・・最愛ちゃん、君も魔女なのかい?」

安森は、おどけた雰囲気で軽い口調で最愛に質問した。
が、一瞬安森の表情が強張ったのを最愛は見逃さなかった。

MOA 「あのぉ。質問の意味がわからないのですが。
   安森さんが言っていた『魔女』って長女さんの事ですよね?」
安森 「僕の人生の中で魔女と呼べる女性が3人いる。3人共に特殊な力を持っていた。」
MOA 「3人の魔女ですか?」
安森 「1人目は、長女の母親だ。」
MOA 「長女さんのお母様ですか?次女さんは・・・?」
安森 「長女と次女は腹違いの姉妹なんだ。」
MOA 「腹違い?」
安森 「最近は『腹違い』って言わないのかな?異母兄弟ってヤツだね。母親が違うんだよ。そして2人目の魔女が寝たきりになっている次女の母親。」
MOA 「では、三女さんも?」
安森 「最愛ちゃん。僕には娘は2人しかいないんだよ。ベッドでパジャマを着て寝たままの次女と、廊下で遭遇してしまいそうになった車椅子の長女だ。長女は肩までの赤毛で、ポリシーなのか絶対に黒い服を着ない。
   そして、あそこには僕と最愛ちゃん、そしてベッドで寝ていた次女しかいなかった。」
MOA 「えっ!?では私が見た女性は??」
安森 「次女だろうね。最愛ちゃんが来て機嫌が良かったんだよきっと。」
MOA 「次女さんって『2年以上意識が戻らない』って言ってませんでしたか?ウソだったんですか?」

安森 「う~ん。ウソじゃないけど・・・。
   僕はこの2年間、あの子が自分で動く姿を見た事がないし、声も聴いたことがない。
   パンパンと音は聞かせてくれるが・・・。
   ところが、3人目の魔女である長女は、あの子と会話をしている様なんだ。たった1人電気を消した真っ暗な部屋で独り言の様に話し続けている時が度々ある。精神的なアレなのか?と心配して長女に色々聞いた際『そういう力が有るから、体を抜け出したあの子の姿も見えているし会話もできる。』と言うんだよ。
   僕はその言葉を信じて、長女が魔女だから、あの子と会話が出来るんだと思っていたんだよ。実際、長女に『僕も直接あの子と話しがしたい。』と訴えたが、『あなたには無理。』と断られてしまった。
   最愛ちゃんにも長女の様な特別な力があるのか、それとも僕が許されていないからなのか。」

安森は、後頭部をポリポリと掻きながら、運転席の窓を薄く開けた。
胸ポケットから煙草とライターを取り出し、BOXから1本煙草取り出すと口先に軽く咥える。ライターに親指を掛けた所で最愛をチラッと見、火を付けずに咥えていた煙草をBOXに戻して再び胸ポケットにしまった。
車が信号に捉まり停止する。
安森はスーツの内ポケットから携帯電話を取り出す。視線が文章を読む様に左右に小刻みに動く。安森は読み終わると同時に軽くスマホを操作すると再びスーツの内ポケットにスマホをしまった。
信号が青になり車が走り出す。
安森は運転席の窓を閉め、エアコンの設定温度を僅かに低く設定し直す。
いつの間にか、カーステレオから流れる音楽は止まっていた。

最愛は安森の言葉を頭の中で咀嚼してゆく。
あらゆる事柄が疑問となって浮かんでゆく。
音、声、姿。安森の言葉。そして車椅子の長女。
その全てがザリザリと粗い鉄やすりで引っ掻く様に最愛の心にささくれを起こさせる。

MOA 「『魔女と幽霊と超能力』・・・私が見たのは次女さんの幽霊ですか?」
安森 「あの子は生きているからね。正しく言うと幽霊ではない。」
MOA 「生霊ですか?」
安森 「それかね。あの子の状態に関しては、僕が聞いた限り最愛ちゃんの方が詳しいと思うんだが。」
MOA 「私が霊に詳しい?ネットにそう書かれてましたか?」
安森 「幽霊は信じる方だろ?今の僕がした話しもそのまま信じちゃってるし。」
MOA 「えっ?全部ウソなんですか?」
安森 「ははは。そうかもね。最愛ちゃんは、なんで幽霊を信じているいるんだい?」
MOA 「幽霊は見ました。だから信じてますよ。」
安森 「へぇ~。どこで、どんな幽霊を見たんだい?」
MOA 「それがですね・・・。あれ?
   どこで見たんだろう・・・。
   見た気がするんだけど。」
安森 「怖かった感触が残っているだろ?どんな怖い思いをしたのかい?」
MOA 「怖い・・・思い?
   ・・・怖いって・・・?」

最愛は、両手でこめかみ辺りを押さえた。

MOA 「安森さん。
   変な事を聞いていいですか?」
安森 「なんだい?」
MOA 「怖いって、どんな感覚でしたっけ?」
安森 「本当に変な質問だね。
   恐怖かぁ・・・。」

安森は、ルームミラーと左右のドアミラーを確認すると、両手でハンドルをしっかりと握り、いきなりフットブレーキをガツンと踏み抜いた。
車がタイヤを鳴らしながら、ギュギュギュギュと斜めに滑る。
最愛の身体が右前に引っ張られた。
最愛の眼球がキュルキュルと動き状況を確認する。
最愛は素早く右手をダッシュボードに置き、親指でナゲットの箱を押さえ小指と薬指でナゲットソースとケチャップを押さえながら、前のめりになる体重を支える。左手でドリンクホルダーに置かれたオレンジジュースを押さえ、ストローの口からこぼれない様に人差し指で軽く蓋をする。そして、両足を広げて踏ん張った。
車は滑り、車道を横向きになった所で、ガックン!!と激しい振動と共に車が停止した。

MOA 「急にどうしたんですか?」

最愛はコンソールボックスから落ちたハンバーガーが入った紙袋を元の位置に戻しながら、何事も無かったかの様な冷静な口調で安森に聞いた。

安森 「ふぅぅぅ。
   思ったよりタイヤが滑ったね。この車にABS付いて無かったのかな?
   マジで焦ったよ。手の平が汗でびっしょりだ。
   あっ!オレンジジュースが少しこぼれてしまった!拭いとかなきゃ怒られるな。
   で、どうだった?」
MOA 「『どう?』って何がですか?」
安森 「怖かっただろ?」
MOA 「今のがですか?
   危ないなとは思いましたが、前も後ろも対向車もいませんでしたし、滑る方向的にどこにもぶつからないのが分かってましたから、怖いとは思いませんでした。」
安森 「そんな。・・・感情にまで及んでるのか!?
   なにか残っていないか?幼かった頃に感じた怖かった記憶とか。背筋の凍る感覚とか。」

再び最愛は、両手でこめかみ辺りを押さえた。
楽しかった旅行やライブはすぐに思い出せるのに、怖かった思い出が何もない。
頭にぽっかり空いた穴の様だ。
病室で女性を見た時、その穴に液体の様な赤黒い感情が注ぎ込まれる感覚があった。球状に丸くくり抜かれた穴。その穴を半分ほどの赤黒い液体が注がれたイメージ。
再び、その時の感覚を思い出す。先ほど部屋で見た女性を記憶の中から掘り起こす。
ざわざわとした感覚が背中を少し駆け上がり、鼓動が僅かに早くなる。
1階で見た車椅子。最愛の脳裏で一瞬見えた車椅子の女性の左腕と両足が白く焼きつく。
プツプツと擦り傷から血が滲む様に心のささくれから感情が赤黒い液体となり滲み出る。
再び滴る液体の様に忘れていた感情がポタポタと穴に注ぎ込まれる。
その感覚とイメージに集中しようとした途端に、急に感覚がぼやけ遠のいた。
必死で感覚を取り戻そうとするが、俯瞰(ふかん)で眺めた様な、まるで他人事の冷めた感覚に変わってゆく。
自分の中で発生した感情が、壁を隔てた向こう側で起こった他人の事象の様に感じ始めた途端に、早まった鼓動が急速におさまっていった。

MOA 「私も穴が開いているみたいなんです。
   怖い思いをした事が全て思い出せません。
   BABYMETALのライブの前の胸の高鳴りすら思い出す事が出来ないみたいなんです。
   それどころか、『怖い』ってどんな感情だったのかが分からないんです。
   安森さんの長女さんや次女さんの事を思い出すと、少しソワソワした感じになるのですが・・・。
   意識すると膜が張った様になって、考えられなくなってゆく。
   なんだろう・・・なんか変なんです。」
安森 「やっと『違和感』を感じたね。」
MOA 「これが『違和感』なんですか?」
安森 「長女は『恐怖』なんて感情は必要ないと考えている。特に最愛ちゃんの様な職業の人達にはね。
   『恐怖』が決断を鈍らせる。確かに僕がブレーキを踏んだ際、最愛ちゃんの行動と僕の行動には大きな差があった。
   あの場面だけで考えれば正しい意見の様に思えてしまう。
   だが僕の考えは違う。人間には『恐怖』が必要だ。『恐怖』が想像力を生み、心の成長を促すと考えている。
   本人の経験と努力により『恐怖』を克服したなら問題はないのだが・・・。
   『恐怖』の抜け落ちた行動は、幼子の様な根拠の無い行動と同じだ。過信によって加減を知らぬ無謀を招き、怪我や事故といった取り返しのつかない事態を生みだしてしまう。」
MOA 「私のは克服した『恐怖』ではないと言っている様に聞こえるのですが。」
安森 「誰かに『恐怖』を奪われたとかかい?
   察しがいいね。
   最愛ちゃんは、色々な経験をしているから恐怖に対する抗体は強い方だと思う。
   高所や群衆に対する恐怖は克服済みなんじゃないかな?虫やカエルといった生き物に対しては元々恐怖は無いみたいだし。
   だったら、失敗や劣等感、そして失う事に対する恐怖はどうだい?
   誰かに抜き取られた様な気がしないかい?」

MOA 「私達は失敗を恐れませんから。」
安森 「まぁいいさ。『違和感』を感じたのは良い傾向だよ。
   来週のドームが終わったら、僕が言った言葉をゆっくりと考えるといい。
   自分と向き合って『本当の自分』について考えるといい。」

最愛は考え込む。
安森の言葉は、何かを示唆している。それはわかるが、考えれば考えるほどバカバカしい妄想しか思いつかない。

確かに『違和感』を感じる様になった。が、そう感じる様に先導されたからの様にしか思えない。
恐怖の記憶がないのも、一昨日の昼に何を食べたか思い出せないんだから当然なのかも。
この『穴』の開いた様な感覚も、安森の言葉が原因だったような気がする。
白髪になる程の苦しみが解放された話しがきっかけだった様な。
どんな内容だったか、思い出そうとする。
2年前から苦しみが始まり、一年前に『穴』が開き、そして昨日『穴』が埋まった。
昨日?
昨日起こった出来事は、安森が最愛を見つけたという事。
「あの人の言う事を全部信じちゃダメ」との言葉を思い出す。
『穴』の話しを断ち切った破裂音を思い出す。
ふと、ある思いがよぎった。

MOA 「安森さんって、変な事言って私の事怖がらせようとしてませんか?」
安森 「確かに変な話だよね。」
MOA 「安森さんって、実は私の事が結構詳しいですよね?」
安森 「娘がファンだからね。ライブの映像を一緒に見る程度には。」
MOA 「でも、私が大食いな事や、カエルが大丈夫な事、そして来週ライブがある事も知ってました。
   安森さんってメイトですよね?
   私はもう1人で寝れるぐらいに大人なんです。そんな話じゃ怖がりませんよ。
   ドームの直前だから、気を紛らわせようと不思議話をしてくれたんですよね?」
安森 「あははは。ネタばらしする前に気付いてしまったか。」
MOA 「やっぱり!
   変な事ばかり起きると思ったんです!
   あの破裂音も安森さんが鳴らしてたんですね。」
安森 「あれは唯一あの子が僕に送ってくれるメッセージなんだ。」
MOA 「え?今、小さな声で何か言いました?」
安森 「いや、なんでもないよ。
   『倒れた前後の記憶がない。』って最初に最愛ちゃんが言ってたからね。思い出すお手伝いも兼ねて、記憶の探索でもして貰おうと思ったのさ。
   おっと、そうこうしてる内にあと2kmで目的地に着くよ。」

そう言うと、安森はハンドルに取り付けられた十字キーの様な物を押した。
ピッ。プープー。
とスピーカーから音がし、再びカーステレオからMETAL RESISTANCEのCDが流れ出した。
安森の胸でバイブ音が鳴りだす。それを無視して安森は話し出した。

安森 「さて、目的地に着いてしまう事だし、単刀直入に言おう。
   僕は長女と考えが違う。
   君があの子を起こす鍵だと思っている。
   意識不明になってから900日を越えてしまった。あの子には時間がないんだ。
   おまけに手紙も本も君が持っているはずだ。
   すべての謎の解答は君が持っているはずなんだ!
   あの子達の時間も僕の時間も・・・再び時計を動かせるのは君なんだよ!!」
MOA 「何の事を言ってるのかわかりません。」
安森 「あいつは『ドームまで記憶は絶対に戻らない。』と言っていた。
   きっと、ドームで何かをするつもりなんだ。」
MOA 「だから、何の事を言っているんですか?」
安森 「最愛ちゃん。
   君は、記憶と感情を喰われている。」
MOA 「車を止めてください!
   ここから歩きます!車から降ろして下さい!」
安森 「もう一度言うよ。
   君は、あいつに3回も記憶と感情を喰われている!!
   『穴』に目を向けろ!『穴』が埋まった時『本当の自分』を取り戻す!」

安森の目が逆三角形に吊り上る。
最愛は、反射的にドアロックを解除し助手席の扉を開けた。
シートベルトを外し、助手席から飛び出そうとする。
安森は慌てて急ブレーキを踏む。
 

安森 「待て!!
   今車を止める!!ドーム前に怪我をさせる訳にはいかない!!
   いくら君でも大怪我をしてしまう!!」
MOA 「安森さん、もうウソや冗談は必要ないです。
   今はドームに集中する時期なんです。気晴らしのウソ話は必要ないです!!」
安森 「わかった。
   僕もドームの成功を願っている1人だ。
   だが、これだけは言わせてくれ。
   ドームが終わった後、僕に会いたくなったら、この名刺に書かれている携帯に電話をくれ。
   この名刺は捨てないでくれ。絶対に必要になる。
   次会う時は、ウソも冗談も言わない。僕だけが持つ真実を語ってあげるから!
   娘2人の名前も教えてやる!母親2人との出会いも教えてやる!
   だから、その時までに手紙を見つけていたら僕にくれないか。2通の手紙を君が持っているはずだから!!
   『赤い夜』と『黒い夜』が終わった後に!!」

最愛は、安森の手から名刺をむしり取り、コンソールボックスから再び落ちた紙袋を拾い上げ、食べ残っているナゲットとポテト、そして空になったオレンジジュースや包み紙といったゴミを次々と入れる。そしてオレンジジュースをドリンクホルダーから取り出すと紙袋を抱え停止した車から飛び出した。
ガードレールを飛び越え、歩道に入ると振り返り深々と頭を下げた。

MOA 「倒れている所を助けてくれて、ありがとうございました!!
   車で送ってくれて、ありがとうございました!!
   お昼ご飯をご馳走してくれて、ありがとうございました!!
   約束通り、ハンバーガー頂きます!!!
   色々と話しをしてくれて、ありがとうございました!!!」

最愛は大声で叫び終わると、脱兎の如く走り出した。
全力疾走で、力の限り、この場を離れる為に走り続けた。
最後の言葉を聞いた時に起こり始めた激しい頭痛と、2階のベランダで佇む2人の女の子のビジョンから逃れる為に。

安森は胸ポケットから煙草とライターを取り出す。
BOXから煙草を1本取り出し咥えると、火を付けた。
スーツの内ポケットで携帯が震え続けている。
ハンドルに取り付けられた十字キーを操作すると、再びカーステレオの音楽が止まった。

安森 「僕だ。誤操作で電話が切れてしまって悪かったね。ちゃんと聞こえていたかい?」
???? 「・・・。」
安森 「最愛ちゃんは、もう行ってしまったよ。」
???? 「行ってしまったのね。
   聞こえていたわ。不要な事を結構言っていたわね。」

スピーカーから女性の声が響いた。
安森は煙草の煙をくぐらせる。

安森 「まさか感情まで奪っていたとは思わなかったからね。子を持つ父親の優しさが出てしまった。」
???? 「どの口が言っているの?」
安森 「最愛ちゃんが、すべての鍵を持っているんだろ?
   やはり記憶を戻させた方が早いんじゃないか?」
???? 「もう必要ないわ。
   いいから戻ってきなさい。」
安森 「沙夜、わかったよ。」

プープー。と電話の音が鳴り、再びカーステレオから音楽が鳴り始めた。
安森はパネルを操作しクラシックへと切り替える。
ハンドルを大きく右へと切ると、急発進でUターンし走り去っていった。

 
 


ベビメタ小説-『チョークで書かれた道標』(
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