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EMOS-METALさんのベビメタ小説-『由結 夏の旅

 「由結 夏の旅」
                         EMOS-METAL
 

 細くて緩やかな坂道だった。両サイドには、鮮やかなやまぶき色の花が密集したヒマワリ畑が広がっていた。水野由結はマウンテンバイクのブレーキを緩めずにそこを一気に下っていった。
 片側一車線の国道に突き当たったところが坂道の終点だった。
 国道の向こう側は太平洋だ。スパンコールを散りばめたように、水平線がキラキラ輝いていた。耳に届くのは、穏やかな潮騒とカモメの声、それに背後の山でけたたましく騒いでいるセミの大合唱だけだ。
「うわ~!気持ちいい」
 由結は、国道の手前で自転車を降りると、思わず大きな声を出した。海側へと道路を渡り、両手でゆっくりと自転車を押しながら遊歩道を歩き始めた。
 まだ午前の早い時刻とはいえ、雲ひとつない真夏の空から、強い日差しが容赦なく降り注いでいる。気温はぐんぐん上昇していた。間違いなく真夏日になる。にもかかわらず、国道に出たとたん、強いオフショアの海風にあおられて、あっという間に汗が引いていた。
 国道は大きくS字のカーブを描き、小高い山の向こう側に続いている。今、由結が目指している灯台はその先にあるはずだ。
 しばらく自転車を押しながら進むと、乗用車用の退避スペースがあり、手前にはコカコーラの自動販売機が設置されていた。由結は白いジーンズのポケットから硬貨を出して、ミネラルウオーターのボタンを押した。
 スペースの中央に自転車を止めると、かぶっている麦わら帽子が風で飛ばされないように片手で抑え、堤防ごしに180℃広がっている海を眺めた。浅瀬のあたりは、ちょうど由結が着ているTシャツと同じようなミントグリーンで、沖に行くほど深いブルーへとグラデーションがかかっていた。波間に反射する太陽に目を細めながら、ペットボトルから水を一口飲むと、大きく深呼吸をした。
「夏は仕事ばかりで、家族で海に行くこともなかったかならなぁ。こういう景色、テレビ以外で見たのは久し振りかも」
          ◇
 由結にとって、初めての一人旅だった。
 わずか3日間、思いかげずBABYMETALのスケジュールがぽっかりとあいた。由結は「もう高校生になったのだから」と両親を説得して、一人で電車に乗り、房総半島のこの町にやってきた。心配した所属事務所が、安全なリゾートホテルを取ってくれるというのを丁寧に断り、インターネットで見つけた小さな民宿に自分で予約を入れた。

 前日の夕方にこの町に到着すると、民宿のオーナー夫婦が優しく出迎えてくれて、まずはほっと安心した。夕食でオーナー夫人の素朴な手料理をきれいにたいらげ、部屋では窓の外で大騒ぎしている虫の声を聴きながら、途中の駅で買ってきた文庫本を読みふけった。
 いつもなら常に手元から離れることがないスマホは、その存在さえ忘れていた。夜が更けると、ほんの少しの心細さに耐えながら一人で部屋で眠った。今朝は早起きして食事を済ませると、オーナーが貸してくれたマウンテンバイクに乗って、サイクリングに出たのだった。
 普段は怖がりの由結も、生まれて初めての冒険に胸をドキドキさせていた。
          ◇
 半分以上、中身が残ったペットボトルをを背中のリュックに入れると、ゆっくりと自転車を走らせた。しばらく行くと、お尻のポケットに入れたスマホが振動を始めた。自転車を止め、サドルにまたがったまま電話に出た。
 最愛からだった。
「由結、初めての一人旅はどう?」
「順調だよ。泊っている民宿の朝ご飯がおいしくて、つい食べ過ぎちゃった。今は民宿で借りたチャリで海辺をサイクリング中なんだ」
「お天気が良くてよかったね」
「うん。こっちは東京よりも日差しが強く感じる。だけど、潮風が気持ちいいよ。最愛は何しているの?」 
「午後から、なたひー先輩、それに茨城のJKとショッピングの予定だよ」
「あ、楽しそう。寧々どんは元気なのかな。さくらの卒業式以来、会っていないけど」
「元気じゃない寧々どん? イメージできないなあ」
「そうだね。なたひーと寧々どんなら、親身になって最愛の相談に乗ってくれるでしょ。由結がよろしく言ってたって伝えておいて」
「うん、伝える。由結も気をつけてね。まあ、根性なしの由結のことだから、危険なことはしないと思うけど」
「うるさいぞ。でも、せっかくだから、1人でいろいろ考えてみるよ」
「そうだね。じゃあ、日焼け止めはしっかりつけてね」
わかってる。最愛もショッピングで無駄遣いしちゃダメだよ」
「了解!」

 電話を切ると、灯台を目指して、少し強めにペダルを踏み込んだ。
          ◇
 灯台の見学を終え、自転車に戻ると、まだお昼までは少し時間があった。
 東京に戻るのは明日だが、今日1日は何も予定がない。自分が思ったとおりに時間が使える。小学5年生のときにさくら学院に転入して以来、そんな日はまったくなかった。あまり遠くまでは行けないが、ゆっくりと自転車を走らせてみよう。
          ◇
 由結が一人旅をしようと思い立ったのは、このところ、最愛と一緒に悩んでいることを、自分なりにしっかり考えてみるためだった。
 BABYMETALは本人たちも予想できなかったほどの成功を収めている。ただし、その成功は、いわばフィクションの上に成り立っていた。
 
 世界征服、キツネさまのお告げ、death……。

 BABYMETALがさくら学院の部活動の一環だったころなら、フィクションとして十分に成立しただろう。重音部、つまりBABYMETALが、さくら学院という舞台設定の上で成立していたメタフィクションだったのだから。その設定が外れた今、自分たちの進むべき方向が見えなくなっていた。本当は虚構の中を歩いていくのではなく、リアルな世界で自分の個性を作り上げていくべきなのではないか。
 さらに、成功が大きければ大きいほど、犠牲も増える。家族との時間、学生生活、やがて移り変わっていく「今だけの水野由結」。とはいえ、BABYMETALは自分と最愛だけのものではない。

 YUIMETALと水野由結は、どうやって存在の折り合いをつけていけばいいのか?
           ◇
 海辺を離れた由結は、目的もないまま、静かな農道を選んでのんびりと自転車を走らせた。
 澄んだ小川にかかった頼りない木造の橋を渡り、遮断機のない踏切で、目の前を通り過ぎて行く私鉄電車を見送る。道ばたのお地蔵さんの前で手を合わせ、背中に大きな籠を背負った農家のおばあさんに会釈して……。
 少し空腹を感じたので、近くの駅を目指すことにした。駅の近くなら食堂かコンビニぐらいはあるだろう。私鉄の線路に沿って自転車を進めて行った。
 しばらく行くと、唐突に小さな駅の前に出た。
 鬱蒼とした木々にくるみ込まれて、時間に置き去りにされたような木造の古い無人駅だった。

 周囲には期待した食堂もコンビニもなく、小さな雑貨屋が控え目に店を開けているだけだった。近づいて中を覗いてみると、ほんの数坪の小さな店内には、昭和時代からそこにあるようなシャンプー、蚊取り線香、ビーチサンダルや浮き輪などが雑多に並べられていた。店の奥からは高校野球中継が聴こえてきた。食べ物は置いていないようだが、「雪印乳業」とロゴの入ったスライドドアの古い冷蔵器があり、ビン入りの牛乳やラムネなどが並んでいた。
「すみません」
 声をかけると、店の奥から小柄で優しそうな老婦人が出て来た。由結は自分で冷蔵器からイチゴ牛乳を取り出して、硬貨で代金を払った。「どうも、ありがとうね」というおばあさんに笑顔を返し、店の前で木陰に置いてある古い木製のベンチに座って、麦わら帽子を脱いだ。イチゴ牛乳は想像以上に冷えていて、人工的な甘さが体全体にしみ込むようだった。

 ふと横を見たら、数メートル離れたところで、小学3、4年生ぐらいの小柄な女の子が由結のことを見ていた。地元の子らしく、顔も腕もこんがりと日焼けしている。
「あ、こんにちは!」
 由結が声をかけると、その子は小首をかしげて少しだけはにかんだ笑顔になった。
「今日は暑いね。お名前は? 私は由結っていうの」と話しかけたが、何も言わず、まぶしそうな表情でこちらを見るだけだった。
 
 (もしかしたら、喉か耳の病気で話ができないのかもしれないな)
 そう思いながら、少女をよく見たら、なんとなく親しみを覚える顔立ちをしていることに気づいた。
 そうか。どこか自分に似ているんだ。さくら学院に入る前の自分は、目の前の少女と雰囲気がそっくりだ。
 もう一度話しかけてみた。
 「ねえ、おねえちゃん、おなかが空いているんだけど、この近くにコンビニか食堂はないのかしら」
 やはり少女は何も言わず、そのまま由結の後ろのお店の中に入っていった。この店が彼女の自宅らしい。しばらくすると、先ほどの老婦人が軒先に出てきた。
「お嬢さん、残念だけどこの辺にはコンビニや食堂はないのよ。田舎だからねえ。でもこれから、この子のお昼だから、一緒に食べていきなさい」
意外な言葉に由結は面食らった顔をした。
「いや、そんな。悪いです」
たいしたものはないから心配しないで。こんなに暑い日におなかを空かせたまま外にいたら体に毒だわ。今、冷麦の用意をしているから、一緒にどうぞ。ナツコも喜ぶから」
 老婦人の後ろには女の子が隠れるように立っていた。この子はナツコという名前なのか。
 由結は少し考えて、「そうですか? それじゃお言葉に甘えます」と言うと、すぐに店の奥に案内された。店の奥の6畳間に小さなちゃぶ台が置いてあった。ゆっくりと首を振る扇風機の隣で小型のテレビが金属バットでボールを打つ音を発していた。

 まもなく老婦人が、大きなガラスのボウルに入った冷麦を運んできた。たっぷりの氷が浮かんだ水の中で、缶詰のみかん、さくらんぼと一緒に乳白色の麺が涼しげに踊っていた。薬味として、直火で焙った油揚げ、長ねぎ、それに細切りのかまぼこが添えられていた。

 ナツコが箸を伸ばしたの見て、由結も「いただきます」と軽く手を合わせて、それを食べ始めた。
「おいしい!」
 思わず声が出た。
 都会育ちの現代っ子である由結にとって、冷麦はめったに食べる機会がない。カツオの出汁が効いた冷たいつゆと冷麦の淡白な味、それに香ばしい油揚げが合わさって、イチゴ牛乳で甘くなっていた胃がシャキっとした。
 相変わらずナツコは一言も話さず、表情も変えないが、どこか楽しそうに食べていた。由結が自分の箸で、みかんとさくらんぼを取り、ナツコの器に入れてあげると、うれしそうに小首をかしげた。

 冷麦を食べ終わると、老婦人が麦茶を入れてくれた。ナツコは何も言わずに外に出て行った。
 麦茶を手に老婦人が話し始めた。
「孫のナツコは決して話ができないわけじゃないんですよ。去年、両親を事故で亡くして、私が引き取ることになったんですが、それからはあまりしゃべらない、笑わない子になっちゃったんです。以前は歌ったり、踊ったりするのが大好きな明るい娘だったのに」
「そうだったんですか。かわいそうだな」
「都会で生まれ育ったので、こちらの子供ともちょっとなじめないらしいんです。お嬢さん、お名前は?」
「あ、まだ申し上げていませんでしたね。ごめんなさい。水野由結といいます」
「由結さんね。高校生かしら?」
「はい。1年生です」
「ナツコがこんなに楽しそうに食事したのは、こっちに来て初めてよ。よほど由結さんと一緒に食べられてうれしいんでしょうね」
「どうしてだろう。顔が少し似ているからかなぁ」
そういえば、2人はよく似ているわね。透き通るように色が白い由結さんと違って、ナツコは真っ黒だけど」とナツコの祖母は笑った。

 すぐにナツコが戻ってきた。大きなトマトを2つ手にしていた。
「ああ、ナッちゃん、井戸で冷やしておいたトマトを取りに行ったのね。由結さん、トマトはお好き?」
 由結は弾けたような笑顔で言った。「大好きです!」
「それはよかったわ。それじゃ、切ってくるわね」

「いえ、そのままで大丈夫です。トマトは丸ごと食べるほうがおいしいですから」
「あらあら、見かけによらずお転婆さんなのね」と老婦人は笑いながら、水道水で丁寧にトマトを洗って、1つずつ、由結とナツコに手渡した。
 そのまま、大きな口をあけて食べ始めた由結を見て、ナツコも両手でつかんだトマトにかぶりついた。
 由結は思わず大声を出してしまった。
「うわぁ、おいしい!」
 本当においしいのだ。井戸水でよく冷えていて、味が濃い。まるで熟した桃のような甘さと食感に由結は夢中になっていた。

 大きなトマトを食べ終わると、さすがにおなかがいっぱいになった。由結はふと思いついて、ナツコに言った。
「ねえ、ナッちゃん、今日はおねえちゃんと遊ぼうか!」
 ナツコは黙ったまま、目だけで老婦人を見た。
「いいんですか? 由結さんにはご予定があるんじゃなくて?」
「大丈夫です。今日は1日、何もないんです。晩ご飯の時間に隣町の民宿に帰れば大丈夫ですから。こんなにおいしいお昼をご馳走になったので、そのお礼もしたいし」
じゃあ、お言葉に甘えましょう。ナッちゃん、良かったね。遊んでもらってきなさい」
 初めてナツコがはっきりとした笑顔を見せた。

           ◇
 山の向こうから夏らしい入道雲が立ち昇っていた。
 自転車の後部サドルにナツコを乗せ、由結はマウンテンバイクを走らせた。十字路や分かれ道ごとに、ナツコが進む方向を指差してくれる。その指示通りに由結はハンドルを切り続けた。
 上り坂では、自転車を降り、2人一緒に押してゆっくりゆっくり上って行く。下り坂になると、ジェットコースターのように2人で一気に滑り降りて行った。スピードが出ると、ナツコが由結にしがみついて、自分のほっぺたをぎゅっと背中に押し付けた。
 海岸に出た2人は、海水浴場を横目で見ながら、あまり人のいない岩場の近くで自転車を止めた。海に向かって20メートルほど突き出している大きな岩に2人でよじ登ってみた。大きな波が来ると少し飛沫がかかるが、まるで船に乗っているように、周囲すべてが海に囲まれた。
「そうだ、おねえちゃん、お菓子持っているから食べよう」
 岩に2人並んで腰掛けていると、由結は自分のリュックの中からプレッツェルの箱を出して、「はい、どうぞ」とナツコに差し出した。1本つかみ出したナツコが、さくさくとおいしそうに食べるのを見て、にっこり笑いながら由結も同じようにした。
 そして午前中に買ったミネラルウオーターのペットボトルを出し、キャップを外してナツコに手渡した。ナツコはおいしそうにそれを一口飲むと、由結にボトルを返した。由結も飲んだものの「ぬるくなっちゃって、おいしくないね」と言うと、ナツコは「そんなことない」とばかり、首を左右に大きく振った。
 水平線を見ながら、由結は小声で「あの向こう側は外国なんだよなあ。すぐに次のワールドツアーが始まっちゃうけど、しばらくはこうして日本にいたいなあ」と独り言をつぶやいた。
 たぶんナツコには聞こえなかったはずだ。でもナツコは、不思議そうな顔をして由結の目をじっと見つめた。

 海岸を離れ、山の方へと進んだ2人が、次に着いたのは、森の中にぽっかりとあいたような空き地で、テニスコートぐらいのスペースにはハイビスカスの花がたくさん咲いていた。ナツコのとっておきの場所なのだろう。
「すごい!まるでハワイみたいだね。なんで房総にハイビスカスの花がこんなに咲いているのかしら」
 はしゃぐ由結を、ナツコはまぶしそうに見ていた。
 由結が広げたハンカチいっぱいに可憐な赤い花を摘んで、隅っこの木の切り株に半分ずつ腰掛けた由結とナツコは、麦わら帽子のつばに一輪ずつ差していった。チョコレート色の素朴な帽子に赤い花がたくさんついて、一気に華やかになった。
「はい、この帽子、ナッちゃんにあげるわ。昨日買ったばかりだから、まだそんなに使っていないよ。プレゼント!」
 びっくりして目をパチパチさせながら帽子を受け取ったナツコは、それをかぶらずに、大切そうに両手でそっと胸に抱いた。
          ◇
 その後、再び海岸に戻った2人は、空が赤らんでくるまで、貝殻を拾ったり、砂で船を作ったりして時を過ごした。
 本格的に夕焼けの時間が始めると、並んで砂浜に座って、2人で沖を眺めた。
 ふと由結は、この小さな女の子に、今の自分の気持ちを話したくなっていた。
「おねえちゃんはね、この先の自分の進む道で悩んでいるんだ。今の自分には満足しているんだけど、本当にこのままでいいのかを考えちゃうんだよね」
 ナツコは表情を変えずに、じっと由結の言葉の続きを待っていた。
「でもね。おねえちゃんには、同じ目標に向かって一緒に進んでいるすごく大切な仲間が2人いるの。名前はすぅちゃんと最愛ちゃん。2人のことは心の底から大好きだし、一緒にいるときは本当に幸せなんだよね。だけど、まだ3人とも高校生だから、いつかは別の道に進まなくちゃいけない。すぅちゃんにも最愛ちゃんにも、はっきりした目標があるんだよね。おねえちゃんもそう。将来の目標はあるの。だから、今の生活にただ流されているだけでいいのかな、って考えちゃうんだ」

 ナツコは下を向いて、指で砂をつかんだり、それを離したりを繰り返していた。
「ゴメンね。こんなこと、ナッちゃんに話してもわからないよね。そろそろおうちに帰ろうか。おばあちゃん、心配しちゃうし」
 隣に座っているナツコの肩に、由結がそっと手を回した。
 顔を上げたナツコは涙を浮かべていた。
 驚いた由結が「どうしたの?どうして泣いているの?」と尋ねると、相変わらずナツコは黙ったまま、左右に大きく首を振るだけだった。
「ゴメンね、ナッちゃん。本当にゴメン。おねえちゃん、ヘンな話をしちゃったからね」
 とうとうナツコは声を出して泣き始めた。
「お願いだから泣かないで、ナッちゃん。おねえちゃんも泣きたくなっちゃうから」
 そう言いながら、由結の目にも涙があふれてきた。今度は「泣くことないじゃない。だって由結は今、幸せなんだよ。充実しているんだよ。どうして由結は泣いているの?」と自分に向かって問いかけていた。
 打ち寄せる波の音に2人がすすり泣く声が頼りなく混ざり合った。
           ◇
 翌朝。
 民宿で朝食を終えた由結は、東京に帰るために、部屋で荷物の整理をしていた。
 前日、しばらく2人で泣いた後、ナツコを駅前の雑貨屋まで送り届けた。自転車で帰ろうとする由結をナツコの祖母が制止すると、「もう遅いから」と民宿に電話をしてくれ、オーナーにクルマで迎えに来てもらった。
 結局、ナツコは最後まで何も話さなかった。急に泣き始めた理由もわからないままだった。もっとも、由結自身も自分が泣いてしまった理由がわからない。
 それでも由結は少しだけ元気になっていた。小さな子供とはいえ、誰かと一緒に泣いたことで、心の底に沈んでいたもやもやが少し薄らいでいた。
 それに加え、前夜遅く、最愛からのメールが届いていた。

 最愛はこう伝えてきた。

 <由結、なたひー先輩に怒られちゃったよ。最愛も由結もわかっていないって。芸能界でそんな先のことを考えながら生きていける人なんてほんの一握り。誰もが今日をがんばらなきゃ明日はヤバいっていう危機感と不安の中で活動している。だから最愛も由結も、今、何が大切なのかを考えろだって。その通りだよね>

 ひなたの言うことはよくわかる。自分たちは本当に恵まれたポジションで毎日を過ごしている。最愛も単純だから、ひなたに言われたことで、すっかりBABYMETALをがんばる気になっているようだ。
 思えば、先々の目標があるからといって、また今、自分が迷っているからといって、BABYMETALをやめるという選択は最初からない。
 いくら悩んでも、最初から結論はひとつしかないはずだった。それでも自分を納得させて切り替えないと、すず香や自分たちを支えてくれているスタッフに申し訳ない。自分の気持ちをきちんとリセットさせようと、ひとりで旅に出たのだ。

 結論は決まっていて、理屈ではわかっているのだが、気持ちの切り替えが完全に出来たとは言い切れない。最愛のように単純にはいかない。
           ◇ 
 東京に帰る電車の発車時刻まではまだ少し時間があった。
 最後にもう少し辺りを散歩してこようかな、と考えていたら、民宿のオーナー夫人の大きな声が聞こえた。
「水野さん、お客さんよ」
 お客さん?
 玄関に出ると、祖母に連れられたナツコがそこに立っていた。ナツコは昨日、由結がプレゼントした麦わら帽子をかぶっていた。
 由結はびっくりしながら「わざわざ見送りに来てくれたの?」と大きな声で尋ねた。
 ナツコの祖母がそれに答えた。「どうしてももう一度由結さんに会いたいって言うから。ご迷惑も考えずにごめんなさいね」
「いえいえ。わざわざ来てくれてうれしいです。昨日は楽しかったね、ナッちゃん」。
 由結がそう言うと、ナツコははっきりとうなずいた。

 支払いを済ませ、オーナー夫妻に世話になったお礼を言うと、由結はナツコたちと民宿を出た。駅まではゆっくり歩いても10分程度で着く。駅前には大きな木陰が出来ていて、そこのベンチが気持ちいいことを由結は知っていた。電車の出発まで、2人とそこで話をしようと考えた。
 この日も空は快晴だった。強い日差しが降り注いでいた。蝉の声は昨日よりも一段と騒がしくなっているような気がした。

 3人で横に並んで歩いていると、驚いたことに最初に口を開いたのはナツコだった。
「由結ちゃん、昨日は本当にありがとう。初めて会った由結ちゃんと遊んだおかげで、ナツコも新学期になったら学校でもっと友達をたくさん作って、元気に生活していける自信がついたんだ。いつまでもお父さん、お母さんのことで落ち込んでいても、全然、前に進めないってわかった」
 思った以上に滑らかに話すナツコの目は、昨日とほとんど変わっていない。

 ナツコは続けた。
「由結ちゃんは今、幸せだって言っていたでしょ。でも先のことを考えると、毎日、流されていていいのかって。ナツコもきっと今、幸せなんだと思う。お父さん、お母さんはいなくなっちゃったけど、大好きなおばあちゃんがいつもナツコのことを見ていてくれる。不幸せなことはあったけど、今だけを見たら幸せなんだよね。だけど、今、自分が幸せなんだってことを、わざと認めないようにしていたんだ。だから、自分ではあまり笑わないようにしていたし、自分からおしゃべりもしなかった」
「そうだったの……」
 由結はうなずくと、歩きながらそっとナツコとの手をつないだ。
 そして空を見上げながら言った。
「以前のことも、これからのことも、全部を自分が背負う必要なんかないんだよね。いろんなことが重なり合って過去になったんだし、未来だって、何がどう起きるかわからない。だけど、今の自分にだけは責任を持たなくちゃダメなんだよね。今は自分で選べるし、選ばなくちゃいけない。選ぶことなんか少ないかもしれないけど、それでも一生懸命に自分で選ぶこと。それが自分の責任だし、自分にできる精一杯のことなんだよね」
 自分によく似た顔立ちのナツコに向けてそう言うことで、由結も自分の言葉に確信を感じていた。

 3人は駅前のベンチに着いた。いつの間にか、電車の時刻が近づいていた。
 由結はナツコの顔をしっかりと見つめながら言った。「ナッちゃん、がんばってね。お友達をたくさん作って、いっぱい勉強したり遊んだりしてね」
「うん。がんばる。由結ちゃんにとってのすぅちゃん、最愛ちゃんみたいな大切な友達を作る。そして一緒にがんばっていく」
「ナッちゃんなら大丈夫。きっと素敵なお友達が出来るよ。だって由結に似て可愛いし」と由結はいたずらっぽく笑った。
「うん、以前からよく言われてきたんだ。似ているよねって」とナツコが恥ずかしそうな顔で言う。
 由結は不思議そうな顔で尋ねた。
「似てるって誰に?」
 ナツコは由結の目をじっと見ながらこう答えた。
「ユイメタル」
「......」
 思わず由結は息を飲んだ。やっとのことで言葉を押し出すように返した。
「由結のこと、知っていたの?」

 ナツコの祖母が口を開いた。
「去年、由結さんたちが出演したテレビ番組を録画して、この子はもう何百回も見ているんですよ。昨日、由結さんを初めて見たときからBABYMETALの人だってわかっていたみたい。私は、今朝、ナツコに言われるまで気づかなかったんですけどね」
 由結はびっくりしたまま、表情が固まっていた。
 ナツコの祖母は続けた。
「今まで何かを買ってほしいなんて一度も言わなかったナツコが、少し前に初めてBABYMETALのDVDが欲しいって言ったんです。それで買い与えたら、毎日毎日、そればかりを見ているんですよ。由結さんたちのことが本当に大好きらしいんです」
 驚きが収まった由結は、ナツコに向かって言った。
「言ってくれればよかったのに」

 ナツコは答えた。
「テレビ画面で見ていたのはユイメタル。昨日、おうちの前であったのは由結ちゃん。最初に会ったときに、すぐにユイメタルだってわかったんだけど、きっと今は普通の由結ちゃん、おねえちゃんでいたいんだろうなって思ったから言わなかった。でもね......。昨日、一緒に遊んでくれて、すごく優しくしてくれて、やっぱり由結ちゃんはユイメタルだなと思ったの。ステージのユイメタルはいつもカッコいいんだけど、きっと会ったら、やさしいおねえちゃんなんだろうなって思っていた。ホントにその通りだった。当たり前だけど、同じ人なんだよね。だから、由結ちゃんは由結ちゃん、ユイメタルはユイメタル。そして由結ちゃんはユイメタルなんだ。区別なんかない」

 由結はナツコをぎゅっと抱きしめた。その勢いで、ナツコの麦わら帽子が後ろに脱げ、首紐で背中に垂れ下がった。小さな少女の髪からは、夏の匂いがした。この小さな町の夏の匂いだった。
「ありがとう。ありがとうね、ナッちゃん。やっと気づいたよ。由結はユイメタルだし、ユイメタルは由結なんだよね。やっとわかった」
 由結の頬を流れ落ちていく大粒の涙を、胸に抱かれたナツコがじっと見上げていた。
          ◇
 東京行きの電車がホームに到着した。由結が乗り込むと、あっけないほどすぐにドアが閉まった。
 ホームで見送るナツコに向かって、由結は「バイバイ」と手を振った。
 ナツコは手を振り返す代わりに、両手でキツネサインをクロスさせた。
 BABYMETALを始めたころの遠い自分がそこに立っているようだった。
 由結も大きくうなずいて、同じポーズを返した。
 声に出さずに「YUIMETAL death!」と言うと、ナツコも目に涙をいっぱいに貯めながら、大きくうなずき返した。

 ゆっくりと電車は走り出した。最後部の窓ガラス越しに、由結は手を振った。ナツコはいつまでも同じポーズで見送っていた。

 由結はそっとつぶやいた。
「本当にありがとう、ナッちゃん。由結はこの夏を忘れないよ」
 やがて電車は大きなカーブにさしかかり、ナツコの姿も見えなくなった。

 【 完 】



この物語はフィクションです。登場人物はすべて実在の人とは無関係です。同じ名前、似た名前などがあってもただの偶然です。